129年前のこの日、戸主の徴集猶予廃止を盛り込んだ改正徴兵令が交付され、国民皆兵の実現に大きく歩を進めました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
明治新政府は、欧米列強の圧力に対抗し、いわゆる「万国対峙」をめざして近代国家を形成するために、相次ぐ改革を断行していきました。
その一つが徴兵制度です。
国家を強化するため。これまでの諸藩士を中心とした軍隊にかわって、徴兵制による国民を基礎とした近代的軍隊を作り上げねばなりませんでした。この方針は1869年(明治2)の版籍奉還(はんせきほうかん)直後から大村益次郎(おおむらますじろう)によって立案され、彼が暗殺されたのちは、山県有朋(やまがたありとも)を中心に具体化されました。
- 1871年(明治4)7月:廃藩置県によって藩兵は解散
- 1871年(明治4)8月:全国の兵権を兵部省に結集し、4鎮台設置
- 1872年(明治5)3月:御親兵を近衛兵と改称
- 1872年(明治5)11月:徴兵告諭発布
- 1873年(明治6)1月:徴兵令公布
こうしたステップで公布された徴兵令により、士族・平民の身分に関わりなく満20歳に達した男性を兵役に服させるという新しい軍制が打ち立てられたのでした。
ところが…
徴兵令には「家」の制度を崩さない様に、
- 戸主
- 戸主に代わる者
- 嗣子
- 養子
- 官吏
- 学生
- 代人料(当初は270円、1879年に400円へ引き上げ)を支払った者
は免役になったので、徴兵逃れのために養子になる等の徴兵忌避者が続出し「国民皆兵」の実は上がりませんでした。なんでも、徴兵免除のマニュアル本まで出版されており、そうした不正行為が横行した結果、20歳以上の男子の3~4%くらいしか徴兵できなかったそうです。
そこで、1879年(明治12)、1883年(明治16)に徴兵令が改正され、そしてまた1889年(明治22)のこの日、3回目の改正徴兵令が公布されたのでした。
改正の骨子は免役規定の縮小による国民皆兵の義務強化でした。特に、1889年の改正では、戸主の徴集猶予廃止が盛り込まれ、戸籍法の適用を受ける日本国民の男性は、満20歳(1943年からは19歳)の時に受ける徴兵検査によって身体能力別に
甲
乙
丙
丁
戊
の5段階に分けられ、甲が最も健康に優れ体格が標準である甲種合格とされました。
改正徴兵令により、男性に対して国民皆兵が義務付けられ、甲種合格の者はほとんどが入隊することになりました。そして、逆に乙種以下とされ徴兵されない事が不名誉とみなされるようになったのでした。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<国産初の飛行船の長距離飛行実験成功(1916年=大正5)>
今日はここまでです。
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