1月13日 <江戸幕府、儒者に蓄髪を命じる(1691年=元禄4)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1691年(元禄4)の今日、林信篤(はやしのぶあつ:林鳳岡、はやしほうこう)に蓄髪を命じました。また、従来、儒者が法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)などの僧位に叙せられていたのを、従五位下に叙し、大学頭(だいがくのかみ)に任じました。僧侶ではなく士籍を与えたのでした。

 

時代を少し遡ります。

 

徳川家康は、林羅山(はやしらざん)を江戸幕府の儒官としましたが、羅山は幕府に仕えるとともに髪を剃って僧侶の体となり、道春(どうしゅん)という僧号を称し、法印という僧位を与えられました。羅山は1630年(寛永7)には上野も忍ヶ岡(しのぶがおか)に別荘の地を賜って文庫を建て、1632年(寛永9)には尾張の徳川義直(とくがわよしなお)が林家のために上野に孔子堂(こうしどう)を建て、その翌1633年(寛永10)には初めて釈奠(せきてん)が行われたのです。孔子を祀る釈奠と天子に学を講じる経筵(けいえん)とは、儒学において最も大事な儀礼で、釈奠は令制においても規定されていながら、それほど重要な扱いをされていませんでした。

 

この時期から典礼も整い、しかし、次第に儒者の地位が向上していったのでした。その地位の上昇につれ、僧侶の体に従うことに反対の声があがるようになったのでした。

 

林羅山のあとは、その子の林春斎(しゅんさい:林鵞峰、はやしがほう)が継ぎ、1663年(寛文3)12月に第4代将軍徳川家綱(いえつな)に対する五経の講義が終わった賞として、その家塾に「弘文院」の名を与えられ、これから弘文院学士と称しました。

 

第5代将軍の徳川綱吉は学問好きで、特に儒学を尊重していました。それは、幼少の頃の両親の会話に、その根源があるようです。

 

綱吉が幼少のころ、父の家光が母の桂昌院に、

「自分は幼年の時から武芸を好み、かつ少壮で将軍となり、政務が多忙で読書の暇がなかったので、いまになって悔いる事がある。この子は万事に聡いから、よい師を選んでいまから書を読ませ、聖賢の道に心を用いさせたならば、ゆくゆくは用に立つであろう」

といったそうです。そこで、桂昌院が常に学問に力を入れさせたので学問好きになったのだ、と言われています。

 

その綱吉が将軍になって間もない1680年(延宝8)9月11日には、林春斎の子の林信篤と人見友元(ひとみゆうげん)とを召して経書の討論をして、それ意向毎月2、3度ずつ討論を行うのを常例としました。その討論会は入門書としての「大学」から始め四書五経まで及びました。そして翌1681年(天和元)には、信篤に命じ四書五経などの訓点を正させ、出来上がるにしたがって出版させました。「四書直解(ししょちょっかい)」「四書集注(ししょしっちゅう)」「周易本義(しゅうえきほんぎ)」などがそれで、江戸幕府の出版としては家康以来のことでした。

 

1688年(元禄元)に、綱吉は上野の孔子堂に詣で、林家の家塾 弘文院で信篤の講義を聴き。その後1690年(元禄3)には孔子堂を神田台に移させ、幕府の手によって建造し、新しい聖堂に綱吉自筆の「大成殿(たいせいでん)」の額を掲げさせました。さらに1691年(元禄4)に孔子や四配の像を移し、さらに十哲・七十二賢などをまつり、綱吉がみずから釈奠をおこなって祭田千石を寄せたのでした。これより年々の釈奠にはみずから参拝するのを例としました。なおこのとき、聖堂の地を孔子の出生地魯(ろ)の昌平郷(しょうへいごう)にちなんで昌平坂と改め、そばの相生橋を昌平橋と改めました。これが湯島聖堂のスタートでした。聖堂はこうして林家の私造ではなくなり、その学問所にも公的の性質が加わりました。

 

上野にあった孔子堂を湯島に移して聖堂としたのは、寛永寺に近く、聖人を祀る地ではないという理由からでした。そして、僧侶ではなく士籍を与えた、という変更ともあわせて、この時期に儒学が仏教 との関係から切れていくことになったのでした。

 

今日はここまでです。

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