1月15日 <坂下門外の変、勃発(1862年=文久2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1862年(文久2)の今日、江戸城坂下門外(さかしたもんがい)で、尊王攘夷派の志士が老中安藤信正(あんどうのぶまさ)を襲撃する事件がおこりました。

 

当日、1月15日は上元の佳節で、諸大名が江戸城に登り将軍に謁する日でした。

安藤信正は、西丸五つ(八時)の太鼓を合図に、行列を整えて、西丸下の藩邸を出発しました。行列が坂下門にさしかかると、訴状をささげるような様子の男が駕籠に近づいてきました。すると、男は突然、懐中からピストルを取り出し、駕籠をめがけて発射したのです。これを合図に、左右から五人の者が斬り込んで来ました。あわや、その2年前、1860年(安政7)3月に起こった桜田門外の変の二の舞いかと思われましたが、今度はそうは行きませんでした。

桜田門外の変の後、幕閣の乗った駕籠の警護は厳重になっており、当日も、安藤信正の乗った駕籠は50人に近い人々によって厳重に守られていました。それに対し、襲撃した志士はわずかに六人であり、これではどうにもなりませんでした。

駕籠を一突きして信正を負傷させたものの、それまでで、6人とも討ち取られてしまいました。

 

一体、どうしてこの様な出来事が起こったのでしょうか?

この襲われた安藤信正は、大老の井伊直弼(いいなおすけ)の推挙で若年寄・老中とぐんぐん昇進したいわば超エリートでした。

 

直弼の指示のもとに信正は水戸藩を威嚇して「戊午の密勅」の返納を強制し、同藩の志士から敵視されていました。さらに、直弼が桜田門外の変で倒れた後、信正は幕閣の首脳として、公武合体政策を推進し、孝明天皇の妹和宮の将軍徳川家茂への降嫁を奏請すること3度、鎖国譲位を誓約して、1860年(万延元)10月ようやく降嫁の勅許を得ましたが、和宮の東下の時期についても天皇や和宮の意向を無視しすることが多かった様です。和宮降嫁の報が伝わると、幕府は宮を人質として廃帝を企てるものとの風説が伝わり、天下の志士を激昂させました。

 

その風説は、孝明天皇を退位させて、新しい幕府の意のままに操縦できる天皇を立てようとする陰謀があり、そのため国学者の塙次郎(はなわじろう:塙保己一の子)に、に、廃帝の先例を調査させているが、その首謀者は老中安藤信正であると、まことしやかに噂されていたのでした。

 

こんな背景のもとで結成された襲撃隊は水戸藩より平出兵介・小田彦三郎・川辺左次衛門・黒沢五郎・高畑房次郎の5人、宇都宮藩より河野顕三と川本壮太郎の2人の合計7人で、一同は宇都宮に潜伏し、順次江戸に潜行していきました。そして、襲撃当日の1月15日、川辺を除く6人は登城する信正を坂下門外に襲撃しましたが、桜田門外の変以来、老中らは警固を厳重にしていたのと、刺客が小勢であった為、信正を負傷させただけで、志士は一同闘死したのは上述した通りです。

 

なお。水戸浪士川辺左次衛門はこの襲撃に加わる筈でしたが、約束の時間に遅れてしまったのです。川辺は長州藩邸に桂小五郎(木戸孝介)をたずね、斬奸趣意書(ざんかんしゅいしょ:悪人とされる人物の名前とその理由が書かれている書面のこと)を渡し、隙を見て自刃しました。

 

その趣意書には、和宮の降嫁は幕府が力で強奪したと同様であり、また廃帝の先例を調査し、さらに外国人馴れ親しみ、逆に国内の忠義の者を仇敵のように忌み嫌うとは、まさに国賊であから、これを討つとしています。

 

また、その趣意書にはこんな事も書いてあります。「毛頭公辺(幕府)に対し奉り異心はないのであって、将軍が真実に征夷大将軍の職務を勤める事を希望するものであり、もしも現在のままで、弊政を改革しないときは、天下の大小名が、おのおの幕府を見放して、かならず自分の国(藩)ばかりを固めるようになる」

この襲撃の目的にあったのは、倒幕というよりは、あくまで幕政を改革し、天皇・朝廷の意志を奉じて攘夷を実行すべしという主張でした。

 

今日はここまでです。

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