103年前のこの日、大隈重信内閣は中国の袁世凱に対して、日本の中国における権益の大幅拡大を内容とする5号21か条の要求を行いました。
これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
日露戦争の勝利により日本がロシアから引き継いだ権益のうち、旅順・大連の租借権や満州鉄道の権益は1920〜30年代には期限が切れることになっていたので、日本の満州経営は甚だ不安定なものでした。
そこで日本は、欧米列強がヨーロッパでの戦争に全カを注ぎ込んでいる間に、南満州の権益の期限を大幅に延長してその安定化をはかるとともに、第一次世界大戦勃発後に日本が占領した山東省の旧ドイツ権益を引き継いで、中国での勢力の拡大をはかろうとしました。
そして、1915(大正4)のこの日、大隈重信内閣(加藤高明外相)はいわゆる21ヶ条の要求を中国の袁世凱中国大総統につきつけたのです。
要求は5号21ヶ条からなり、その主な内容は、
- 山東省内の旧ドイツ権益の日本による継承
- 旅順・大連の租借期限及び南満州の鉄道権益の期限の99カ年延長
- 南満州や東部内蒙古の鉱山の権益
- 漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の日中合弁
- 中国政府の財政・軍事顧問として日本人の採用
などでした。
交渉は1915年(大正4)2月〜4月に25回を数え、中国政府はこれを内外に暴露してその不当を訴えましたが、列国の積極的支援は受けられませんでした。日本は強い態度によって最後通牒を発し結局、同年5月、日本人顧問の採用など一部を保留にし、また若干内容を緩和したうえでその大部分を承認させ、同年5月25日に21ヶ条条約が成立しました。
しかし、これを契機に中国国内には激しい対日反感の気運が高まり、日本の要求を受け入れた5月9日を国恥記念日となり、日中関係は決定的に悪化しました。
また欧米列強は日本の中国進出に対して警戒心を強めることになってしまいました。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<明暦の大火で江戸中が火の海に <1657年=明暦3)>
今日はここまでです。
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