1月2日 <江戸城大奥の規則が定められる(1618年=元和4)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1618年(元和4)の今日、江戸城の大奥の規則である大奥法度がはじめて定められました。

 

これ以降、たびたび改正され、次第に完成度を高めて行きますが、大奥の乱れや政治への介入などは、なかなかやみませんでした。

 

1618年(元和4年) 二代将軍徳川秀忠の時「壁書」によって、江戸城の本丸は、幕府の政(まつりごと)の舞台である「表」、将軍が政務を執る「中奥(奥)」、将軍の私邸「大奥」に区分されました。すなわち大奥が表の世界から峻別されたのは、先年のNHK大河ドラマにもなった「江」の時代です。そして、そのドラマで江と確執があった様に描かれていた三代将軍徳川家光の乳母であった「春日局」が、この大奥の整備を図り、その事がまた徳川政権の安定化にも寄与したのです。

 

ちなみに、この春日局は「福」という名前でしたが、1629年10月、後水尾天皇や中宮和子に拝謁した際、従三位の位階と「春日局」の名号とを頂いたのでした。つまり、「春日局」の名前は朝廷から頂いたものだったのです。 その後1632年7月に、春日局が再上洛した際に従二位を賜り位が上がったのでした。この従二位という位は、女性では極めて少なく、平清盛の正室平時子(これも先年のNHK大河ドラマの時代です)や源頼朝の正室北条政子などがその従二位です。 大奥を整備した春日局は、実はとても優秀な女性政治家でもあった様です。

 

その江戸城の大奥は、女だけの世界だけに、非常に煩雑極まりない様々な規則が定められていたそうです。上臈(じょうろう)を頂点とする身分や役職、多くの式日、それに応じた衣服・髪型等々といった内容です。特に厳重なのは女中の出入りの制限と男子禁制でした。

 

その大奥は、江戸城の本丸・西丸などで、将軍やその父・世子の妻妾が生活していた場所。上述しましたが、本丸の場合は、幕府の政治機構がおかれていた「表」、 将軍が日常生活を送る「中奥(なかおく)」に対していうものです。御錠口(おじょうぐち)から北側が中奥で、中奥と大奥の間には上御鈴廊下があり、将軍だけが通行できましたた。その際には鈴のついた紐をひいて知らせます。大奥の内部は、妻妾の居室である御殿向(ごてんむき)・奥女中 の居室である長局向(ながつぼねむき)・御広敷向の三つにわかれ、御広敷向のみ大奥の事務を担当する武士が勤務していましたが、御殿向・長局向は将軍以外男子禁制でした。

 

江戸時代には、大名・旗本など大身の武家の邸宅ては、一般的に表と奥が区別され、その家の主人の妻子を中心とする家族生活は、この奥て営まれていました。

 

将軍家の居城である江戸城においても、本丸・西ノ丸・二 ノ丸・三ノ丸の各殿舎に表・中奥・奥が区別されており、この江戸城の奥向を特に大奥と称したのです。本丸ならば将軍、 西ノ丸ならば大御所あるいは将軍世子の夫人すなわち大御台所・御台所などがその大奥の主でした。御錠口(おじょうぐち)から北側が中奥で、中奥と大奥の間には上御鈴廊下があり、将軍だけが通行できました。その際には鈴のついた紐をひいて知らせます。大奥の内部は、妻妾の居室である御殿向(ごてんむき)・奥女中 の居室である長局向(ながつぼねむき)・御広敷向の三つにわかれ、御広敷向のみ大奥の事務を担当する武士が勤務していましたが、御殿向・長局向は将軍以外男子禁制でした。

 

 

大奥女中の職制・人員などは時代による変化もあり必ずしも一定していません。幕末ごろの本丸大奥を例にと ると、その職制として上臈・御年寄・中年寄 ・御客会釈(あしらい)・中臈・御坊主・御小性・御錠口・表使・御次・御右筆・御切手書・吳服之間・御三之間・御庄座敷・御火之番・御使番・御仲居・御末・御犬子供などがあり、それぞれ職務を分掌していました。

 

またこの職階は、将軍や御台所に目通りが許される御目見以上と許されない御目見以下の区別もありました。このような役職は、ほぼ同様な構成で将軍付と御台所付の二組がありましたが、御坊主は将軍付、御小性は御台所付のみにある職種です。上臈は京都の公家の女が多く、御年寄以下の諸職は武家の女から選ばれました。ただし御末のような下級者は、町人の女でも武家の取次ぎで採用されたようです。

 

大奥女中の奉公は、一生奉公を原則としましたが、下級者の場合は願い出て暇をとることも出来ました。奉公が決定すると奥向の事を一切他言しない、表向願いがましい事を取持ちしないなどの条項を記した誓紙を差し出し、また支配の女中から「女中法度」の条々を申し渡されました。

 

三代将軍徳川家光以後歴代の将軍は、天皇家、皇族、上級公家の女を御台所として迎え、これに伴って上臈などの奥女中が大奥に入ったので、大奥には公家風が浸透し、大奥独特の風俗習慣が形成されました。

 

平常の衣服も御台所をはじめ御目見以上の身分の者は品質の上下はありましたが白無拓の重(かさね)に板締縮編の間着(あいぎ)、その上に縮緬種あるいは輸子(りんず)の掻取(かいとり)を着用するなど絹物の衣類が用いられ、しかも結髪の仕方、衣服の色・柄などは身分・役柄・季節・式日と平日などによって変えるなど複雑煩瑣な定まりがありました。

 

大奥法度などにも規定されているように、大奥が表の政治に介入することは厳に禁止されていましたが、実際には影響を及ぼしたことも少なくありませんでした。

 

例えば田沼意次が縁故を頼って将軍家治の側妾の津田氏と結び、奥女中に賄略を贈って大奥を操縦したり、また家斉の大御所時代に権勢を振る った水野忠篤や中野清茂(碩翁)は家斉の側妾の縁者で、その関係から家斉の信任を得たとされています。

この様に上手くやった人も居れば、寛政の改革を行なった松平定信や、天保の改革を行なった水野忠邦は、その厳しい緊縮政策の故に大奥勢力の反感を かい、これが失脚の一因となったとも言います。

政局の動向を決定した基本的要因は別の点にあったにせよ、大奥が幕政と全く無関係てはなかったことは確かであるみたいです。

 

以下に大奥の職制をまとめました。偉い順です。

 

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「大奧職制一覽」

御目見以上

呼称:職掌

上臈:奥女中の最高位、御台所の側近て諸相談役、公家出身が多い

御年寄:御老女、大奥第一の権力者て奥向きの万事を指図する

中年寄:御年寄の代理として諸事をとり仕切る

御客会釈:大奥での将軍および御家門方の接待役、御年寄出身が多い

中臈:将軍や御台所の身辺の世話役、将軍付お手つき中臈が側室となる

御坊主:将軍付の雑用係、五十歳前後の刺髪姿で表への御用も勤める

御小性:御台所の側近に仕え、煙草や手水の世話をする、十三〜四歳の少女

御錠口:中奥と大奥との取次ぎ役、昼夜とも時間を御座之間へ告げる

表使:大奥の交外係、買物をしたり、御広敷役人と交渉したりする係

御次:仏間・御膳部・御道具等を司る、遊芸一通りの心得ある者が多い

御右事:文書係、外部への進物などについては御年寄の指図に従う

御切手書:七ッ口から出入する人々の改役

呉服之間:常に将軍・御台所用呉服物の調製を司る役

 

御目見以下

呼称。職掌

御三之間:御三之間以上の居間の掃除・雑用係遊芸全般に心得が必要(頭は御目見以上)

御庄座數:大奥の庶務係(頭は御目見以上)

御火之番:昼夜を通して各局・女中の部屋を巡回し、火の元を注意する役

御使番:代参の供や、文書・進物を受け取り、御広敷へ渡す役

御仲居:御膳所係

御末:風呂・御膳所用の水汲み、代参の供、 大奥内での駕籠かき等の役

御犬子供:御錠口から御三之間までのあいだの雜用係

 

 

今日はここまでです。

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