1月24日 <大逆事件の刑を執行(1911年=明治44)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1911年(明治44)の今日、大逆事件(幸徳事件とも)の死刑が執行されました。

 

天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫を狙って危害を加えたり、又は危害を加えようと計画したりする者に対しては、1947年(昭和22)以前の刑法では死刑と処す旨の規定があり、その罪は「大逆罪」でした。この規定が適用された事件は歴史上に4件残っています。その4件は、以下のものです。

  • 1910年(明治43):幸徳事件(こうとくじけん)
  • 1923年(大正12):虎ノ門事件(とらのもんじけん)
  • 1925年(大正14):朴烈事件(ぼくれつじけん)
  • 1932年(昭和7):桜田門事件(さくらだもんじけん)

 

今回の大逆事件は、その中でも最古かつ最大のものです。 大逆事件は、社会主義を弾圧しようとする政府が主導し、捏造したとされる事件です。その真相は長く謎に包まれていましたが、第二次世界大戦後になってようやく明らかになってきました。

 

その内容は、宮下太吉(みあしたたきち)・管野スガ(かんのすが)らの数人の急進的な無政府主義活動家が、天皇をすべての社会悪の根源としてその暗殺を計画し、爆裂弾の製造にあたっていたことが発覚して1910年(明治43)5月に逮捕されました。政府はこれを機に全国各地で事件に無関係な者も含めて数百人の社会主義者を検挙したのです。うち26名は刑法の大逆罪にあたるとして起訴されました。大審院は1審のみの非公開公判で、1911年(明治44) 1月18日には24名に死刑判決(そのうち坂本清馬ら12名は、天皇の特赦により無期懲役に減刑されています)、新田融(にったとおる)ら2名を有期刑としました。

 

死刑が執行されたのは判決から6日後の、1911年の今日でした。11名が24日に、ただ一人の女性であった管野スガは翌25日に執行されました。社会運動はこうして「冬の時代」を迎えたのでした。

 

第二次世界大戦後、この事件の関係資料が発見され、暗殺計画に関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名のみであったこと判明しました。幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は天皇暗殺計画には消極的だったらしく、その他の者も無実の罪を着せられてしまったワケです。

 

また、1960年(昭和35)には 「大逆事件の真実を明らかにする会」が発足し、この事件を見直す動きがあります。判決後50年の1961年(昭和36)に、唯一の生存者の坂本清馬は再審を請求しましたが、最高裁で棄却されました。

 

思想弾圧がまかり通った、暗黒の時代がほんの六十数年前まで、この日本にもありました。現在も弾圧こそありませんが…ね。

 

今日はここまでです。

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