1月25日 <厩戸王が勝鬘経義疏を著す(611年=推古天皇19)>

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1508年前のこの日、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子とも)が「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」の1つ、「勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)」を著しました

これは飛鳥時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この推古天皇の御代を中心とする時代の文化は、当時の宮の所在地に名前をとって飛鳥文化と呼ばれています。

この飛鳥文化の特色は、はじめは渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、我が国初の仏教文化として展開したことにあります。594年(推古天皇2)には仏教興隆の詔が出され、仏教は政治的に重んじられる対象となったのです。

その時代に、仏教の普及に大きく寄与したのは蘇我氏と厩戸王でした。

厩戸王は、自ら「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という3つの経典に対する注釈書を著したと考えられています。その3つは以下のものです。

  • 法華経(ほっけきょう)→「法華義疏」(615年(推古天皇23))
  • 勝鬘経(しょうまんきょう)→「勝鬘経義疏」(611年(推古天皇19))
  • 維摩経(ゆいまきょう)→「維摩経義疏」(613年(推古天皇21))

この3つうち、法華義疏だけが厩戸王親筆と伝えられるものが御物(ぎょぶつ)として現存し、勝鬘経義疏・維摩経義疏については後世の写本があるのみです。御物として存在する法華義疏は、日本最古の肉筆遺品なんだそうですが、それが厩戸王の親筆であるか否かについては議論が別れています。

 

で、本日の記事の勝鬘経義疏は、611年(推古天皇19)のこの日、厩戸王が著したと考えられています。

はじめに、経題を簡潔に述べ、ついで経文を序説・正説・流通説の3段にわけて注釈しています。法鼓・憂婆塞(うばそく)・涅槃(ねはん)・般若・維摩などの経典、梁(りょう)の法雲の説、敦煌発見の「維摩経義疏本義」などを引用してあるとされています。

「日本書紀」には、606年(推古天皇14)に厩戸王が推古天皇に同経講説を行った、とあり、その原稿をまとめたものとも言われています。この講説の時期については598年(推古天皇6)とする説もあります。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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