1月27日 <将軍源実朝が鶴ヶ岡八幡宮で暗殺(1219年=承久元)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

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1.出来事ピックアップ

1219年(承久元)の今日、将軍源実朝が鶴ヶ岡八幡宮で暗殺されました。

 

2.解説

わずか12歳で鎌倉幕府の3代将軍となった実朝は、13歳の時に京都の貴族坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘と結婚しました。実朝は、都にあこがれ、和歌に親しみ、蹴鞠を喜びました。とくに和歌が好きだったらしく、狩りに出る代わりに花鳥風月をたのしみ、しばしば歌会を開いたそうです。また和歌に秀でた武士たちは恩寵を受けたという記録も残っています。

 

そした実朝の姿は、東国生え抜きの武士たちにとって快くは思われていませんでした。長沼宗政(ながぬまむねまさ)という当時の有力武士がこんな事を…

「当代ハ歌・マリヲ以て業トナシ、武芸ハ廃スルニ似タリ。女性ヲ以テ宗トナシ、勇士ハ無キガゴトシ。マタ没収ノ地ハ勲功ノ族二充テラレズ、多ク以テ青女(せいじょ:若い女房のこと)等二賜フ」

とまぁ…ボロクソに言ってます。

 

その実朝、官位昇進のスピードがものすごかったんです。1216年(建保4)に権中納言(ごんちゅうなごん)・左近中将(さこんちゅうじょう)。2年後の1218年(建保6)に27歳で権大納言兼左大将、ついで内大臣。その同年12月には右大臣、と前代未聞の超スピード出世をしました。

「吾妻鏡」によれば、鎌倉幕府の宿老の大江広元らが、父の頼朝や兄の頼家が低い官位に甘んじていた例をひいて諌めたところ、実朝は次のように答えたそうです。

「源氏の正統は自分で絶える。だからせめて高官に昇って家名をあげたいのだ」

 

1219年(承久元)1月27日は、この右大臣就任拝賀の式を鶴ヶ岡八幡宮で執り行うことになっていました。 当日は、昼は晴れていたのに夕方から冷え込み、生憎の大雪になりました。鎌倉一体は積雪が60cmにも及んだそうです。

 

そんな大雪の中で行われた拝賀の式典も滞り無く終わり、実朝は本殿の前の61段ある大きく長い石段を降り始めました。

 

その直後のこと、頭巾をかぶった法師がとつぜん走り寄り、実朝が引きずる様にして歩いていた下がさねの衣の上に飛び乗ったかと思うと、

「親の敵はかく討つぞ」

と叫んで、実朝の頭部に切りかかりました。そして雪中に転倒した実朝にとどめを刺し、首を打ち落としてしまったのです。それとほぼ時を同じくして3〜4人の法師が走り出て、供の者たちを追い散らし、松明を持って実朝を先導して側近の一人の源仲章(みなもとのなかあき)も討ち取りました。

 

あっという間の出来事でした。数千人いた武士達はすべて鳥居の外に控えており、その場には誰一人として武装した者はいませんでした。血相を変えて逃げ惑う公卿たちのただならぬ悲鳴に気づいた武士は、すぐさま境内に突入しましたが、八幡宮の石段の上から

「われこそは八幡宮別当阿闍梨公暁(あじゃりくぎょう)なるぞ。父の敵を討ち取ったり」

と暗闇に響く声を聞いたのみでした。

 

その凶行に及んだ男は、実朝の兄、源頼家の遺児で、鶴ヶ岡八幡宮の別当であった公暁だったのです。その公暁も後日殺されて、彼(公暁)が誰に操られていたかは、北条氏説と三浦氏説とがありますが定かではありません。

 

ここに、清和源氏の嫡系は断絶しました。3代わずか27年の治世でした。

 

この凶行を見つめてきた、公暁が隠れて待ち伏せしたとされる大銀杏の木、樹齢一千年とも言われる大木が、源実朝が殺害された石段の脇にありましたが、2010年(平成22)3月10日、強風の為、根本から倒れました。歴史の証人でもあった、この「隠れ銀杏」もまた過去のものになったのです。

 

余談ですが、公暁がこの大銀杏の木陰から躍り出て実朝を斬り殺した…というのは江戸時代になってからとなえられ始めた説なのです。鎌倉時代の歴史書「愚管抄」にはそうした記述がなく、「公暁の隠れ銀杏」というのは、実は眉唾ものだと思った方が良いのかもしれません。

 

今日はここまでです。

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