149年前のこの日、明治政府の参与として活動していた横井小楠(よこいしょうなん)が退庁の途に襲撃され命を落としました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
広告
1.解説
明治政府はあらゆる分野において急速な近代化政策(=西欧化政策)推し進めましたが、その変化が国民の実情うぃ無視したもので余りにも急激であったため、国民に大きな生活の変化を強いることが多々有りました。
そのため、近代化政策を進める政府に対して、その抵抗勢力は
『政府が少数の藩閥官僚による「有司専制(ゆうしせんせい)」の政治を行っている』
と批判し、そうした批判に同調し、不満の声を上げて政府に反抗する気運が高まっていったのです。
それは、地租改正による農民の重税感、徴兵制度による兵役の義務や小学校設置に伴う経済的負担などから全国各地で農民一揆が起こったのもこの時期です。
また、廃藩置県、徴兵制度、秩禄処分など相次ぐ改革によって、封建的諸特権を次々と奪われた士族の間でも、政府への暴発寸前の不満が充満していました。
そうした不平士族の明治新政への反抗は、政府要人の暗殺という形態でしばしば行われました。その1つが1869年(明治2)にこの日に起こった、参与横井小楠の暗殺もそうした事例の1つです。以下に列挙してみましょう
- 1869年(明治2)1月:参与横井小楠
- 1869年(明治2)12月:兵部大村益次郎(おおむらますじろう)
- 1871年(明治4)2月:参議広沢真臣(ひろさわさねおみ)
- 1874年(明治7)1月:右大臣岩倉具視(いわくらともみ)→暗殺未遂、喰違の変(くいちがいのへん)
- 1878年(明治11)5月:参議兼内務卿大久保利通(おおくぼとしみち)
さて、今日の出来事の当事者の横井小楠は、幕末に公武合体運動を推進し、開明派として活動した人物で、明治新政府では参与となっていました。
1869年(明治2)年のこの日、小楠は参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組の攘夷論者の凶刃によって、命を落としました。享年61歳でした。
殺害の理由は、小楠がキリスト教徒で共和論者であるとして「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれています。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:<大阪朝日新聞に「天声人語」が登場(1904年=明治37)>
今日はここまでです。
こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
コメント