1月7日 <将軍に「親玉!」と声がかかる町入能のはじまり、江戸城で演能(1607年=慶長12)>

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411年前のこの日、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠は観世・今春の両座を江戸城内に呼んで猿楽(能)を観覧し、町人にも陪観(ばいかん)を許しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

室町時代に、能楽師たちが寺社の保護を受けて座を結成し、能を演じる専門的な芸術集団を形成されていきました。興福寺を本所とする

  • 今春座(こんぱるざ)
  • 金剛座(こんごうざ)
  • 観世座(かんぜざ)
  • 宝生座(ほうしょうざ)

のいわゆる大和猿楽四座がその代表的なものでした。

観世座に出た観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子は、室町幕府第3代将軍足利義満・第4代将軍足利義持らの保護を受け、近江猿楽や田楽能など他の芸能集団と競いながら洗練された芸の美を追求し、芸術性の高い猿楽能を完成しました。

この14世紀後半〜15世紀前半に、能という芸能が大きく昇華しましたが、それから約2世紀が過ぎた1607年(慶長12)のこの日から3日間、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠は観世・今春の両座を江戸城内に呼んで猿楽を観覧し、町人にも陪観を許しました。江戸城では正月3日に謡曲始めを行うのを恒例としていましたが、能を演じたのはこれが初めてでした。

能の大和猿楽四座が江戸幕府から扶持をもらう…すなわち幕府お抱えとなったのはその2年後の1609年(慶長14)のことなので、この時の演能は、その足がかりとなったであろうと考えられています。

 

これ以降、将軍宣下(しょうぐんせんげ)・幼君誕生・元服・婚礼などの慶事や日光参拝などの大法事には式能(しきのう)を催し、初日だけは町人の観能を許しました。これを「町入能(まちいりのう)」といいます。

幕末期の江戸城での町入能では、午前・午後それぞれ約2,500人ずつが菓子・酒などを賜って麻裃で入城しました。町人は町単位で選ばれましたが、江戸の町の中でも古町に限られていました。

 

この古町という言葉、あまり聞き慣れませんね。世界大百科事典には次のような記述があります。

江戸城の拡充,武家地の造成とともに,日本橋,京橋,神田といった市街地が整然とした区画で整備されていった。これらの町は,寛永年間(1624‐44)までに約300町に達し,のちに古町とか草創地と呼ばれるようになった。これらの町には呉服,木綿,米,魚などを取り扱う商人とともに,鍛冶,染,大工,武具などの製作・加工に従事する職人が多かったことはいうまでもない。

(世界大百科事典「江戸」より引用)

18世紀半ばの延享年間には、江戸には1,678町あり、そのうち古町は300町なので、ごく一部の地域の町民のそのまた一部が呼ばれた…ということですねぇ。

ついでなので、江戸の町の増え具合に言及しておきましょうか。

1643年(寛永20):300町
1662年(寛文2):674町
1713年(正徳3):933町
1747年(延享4):1678町

こんな感じで猛烈に町が増えていったのです。

 

町入能の際の観能の態度は必ずしも厳粛なものではなく、将軍の御簾(みす)が上がると

 

「親玉!」

 

と声がかかったそうですよ。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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