1月9日 <内村鑑三の不敬事件が発生(1891年=明治24)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1891年(明治24)の今日、内村鑑三の不敬事件が起きました。

 

この出来事は、当日、東京の第一高等中学校では、前年の10月30日に発布された教育に関する勅語(教育勅語)の奉読式が行なわれた時に起きました。天皇陛下の署名のある勅語に、参列した教員・生徒は次々に勅語に礼拝しました。ところが礼拝を強いられた同校嘱託教員でキリスト教徒の内村鑑三は、

「礼拝は天皇を神に祭りあげるものだ」

として、最敬礼を拒んだのです。 これは、キリスト教の信者としての信念に基づくもので偶像崇拝は拒否すべきと考えたからでした。

 

それでも、敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのです。やや頭を垂れた程度であったそうです。

 

この最敬礼を拒んだ為、内村鑑三は、同僚教師・生徒・ジャーナリスト・国家主義者などから非難を受けたのです。内村はそののち、友人に頼んで代拝してもらったにも関わらず「非国民」の烙印を押され、依頼解嘱のかたちで講師の職から追われることとなりました。しかも職を追われたのは内村鑑三だけではなく、内村を弁護した教員一人も併せて、でした。

 

これより6年間、内村は国賊・不敬漢という悪言や罵倒に包まれながら、大阪・熊本・京都・名古屋などの各地で苦難の流浪生活を送る事を余儀なくされ、友人達の保護によってなんとか生命をつなぐことができましたが、夫の身を案じて心を痛めた奥様の加寿子さんはこの事件の直後の4月19日に亡くなっているのです。

こうした迫害に耐える事によって、内村鑑三の信仰は一層深まったそうです。

 

この「内村鑑三不敬事件」は、帝国憲法と教育勅語による天皇の神権化が始まった時期の、天皇制とキリスト教との対決を象徴する事件でもあり、その後も尾を引きます。

 

2年後の1893年(明治26)、哲学者でもある東京帝国大学教授の井上哲次郎氏が「教育ト宗教ノ衝突」と題する論文のなかで、

「耶蘇教(やそきょう:キリスト教のこと)は教育勅語の趣旨に悖り(もとり)、日本の国体と相容れない邪教」

攻撃したのです。

 

内村鑑三も黙ってはいませんでした。 さっそく公開状をたたきつけて、はなばなしい論争を展開したのでした。仏教徒によるキリスト教排斥運動は、すでに明治10年代から始まっていましたが、この「内村鑑三不敬事件」をきっかけとして激しくなったのでした。キリスト教徒で教育家の大西祝(おおにしはじめ)は、両者の論争を批判して、

「これはキリスト教と教育勅語の衝突というより、キリスト教と保守主義の激突だ」

と言っています。

 

日本で、信教の自由が真に実現されたのは、戦後に日本国憲法が公布されてからのことです。 勿論、大日本帝国憲法でも

第二十八条:日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

と規定されていましたが、実際には“神道は宗教に非ず”として特別な扱いをする動きがあったのです。

 

幕藩体制下で植えつけられたキリシタン邪宗観は、西洋謳歌・文明開化の時代においても、日本人の心から容易に拭い去ることができなかったようで、キリスト教には厳しい時代でした。そうした厳しい環境のなかで、キリスト教は天皇制との妥協に活路を見出して行くのでした。

 

ちなみに、内村鑑三自身は、

「私共に取りましては愛すべき名とては天上天下唯二つあるのみであります、其一つはイエスでありまして、其他の者は日本であります、是れを英語で白しますれば其第一はJesusでありまして、其第二はJapanであります。」

と述べるほどの愛国者であったのです。

 

また、内村鑑三が墓碑銘として書き残した右の短い詞にはこう書いてあります。

「われは日本のために、日本は世界のために、 世界はキリストのために、すべては神のために」

 

こうした内村鑑三の生き方、信念の持ち方というものは、小生自身は見習いたいものだと感じています。

 

尚、拙blogの10月30日の記事で、教育勅語が発布について触れています。そちらも併せてご一読頂ければ幸いです。直後にリンクを貼り付けておきますので、そちらからどうぞ。

10月30日 <教育勅語が発布されました (1890年=明治23)>

 

今日はここまでです。

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