1881年(明治14)のこの日、北海道開拓使の官有物を政商五代友厚らに払い下げようとする行為が御前会議を経て中止となり、それとともに大隈重信の諭旨免官が決定しました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代から明治時代に入った当初は、新政府の政策を批判する際に武力を伴った行動に出ることもありました。いわゆる士族の武力反抗とよばれるものですが、それも西南戦争が新政府軍に鎮圧された以降は、反政府運動は言論活動に絞られていきました(西南戦争に関しては9/24の記事を併せてご一読下さい)。
西南戦争が起こった1877年(明治10)の翌年頃には、地方では府県会が開かれて、地方に住む人々にも政治的関心が育っていきました。それまでの士族中心の運動(士族民権)は、農民の地租軽減要求などと結びつき商工業者も参加する広範な運動(豪農民権)へと変化し、発展していきました。
こうした世情を背景に1880年(明治13)には国会期成同盟が結成され87,000人の署名を集めて国会開設の請願を出そうとしました(これは不受理に終わっています)。この国会開設運動は全国的に広がりをみせたことが、当時の新聞からも伺えます。
政府部内でも1879年(明治12)〜1881年(明治14)にかけて、立憲政治の実現についての意見書が作成されましたが、その多くはじっくりと時間を掛けて国会を開設していこう…といった内容のものでした。ところが、参議大隈重信が1881年(明治14)3月に
「2年後には国会を開設して、英国流の政党政治(議院内閣制)を取り入れるべきである。」
との意見書を上奏したのです。これは、じっくり派の伊藤博文らとは真逆の意見で、双方の対立は深まっていきました。
そうした対立が熱を帯びていた夏に「開拓使官有物払下げ事件」が起きます。その事でも払い下げを進めようとする黒田清隆と反対する大隈重信とが対立しました。そうした背景で、保守派の大隈重信排除の動きも強まり、政府内の軋轢が高まっていきました。さらには、この開拓使官有物払下げ事件は、民権派の反政府運動に油を注ぐ形になってしまいました。そこで政府は、漸進的な国会開設と君主の権限が強大なプロイセン(ドイツ)流の憲法を作る方針を固め、1881年(明治14)の今日、御前会議を経て払い下げの中止と大隈重信の諭旨免官が決定し、1990年(明治23)に国会を開く旨の詔書が出されました。これが「明治14年の政変」と呼ばれる出来事です。
こうして政府は、岩倉具視・伊藤博文らが中心となって、民権派の矛先をかわすとともに、立憲政治の実現にむけて強力なリーダーシップをとることになりました。
上記の「開拓使官有物払下げ事件」について以下に補足します。
薩摩出身の開拓長官の黒田清隆は、1872年(明治5)からの開拓10年計画終了にあたり、1400万円余りの予算を投下して北海道開発を進めてきた官営事業を、わずか39万円、無利息30年賦で薩摩出身の政商五代友厚らの関西貿易社に払い下げようとしたのです。政府は一旦これを承認しましたが、この破廉恥なほどの破格の好条件での取引が、藩閥政治と政商との黒い結びつきを示すものとして民間から攻撃されたのです。政府内部でも上記した様に大隈重信が反対していました。大隈重信が民権派と手を組んで政府を転覆させようとしている…と判断した政府首脳は、払い下げ中止を決定するとともに、大隈重信を排除して事態の収拾を図ったのです。
近年の「かんぽの宿払い下げ」でも同じような事がありましたねぇ、今も昔も変わってないということでしょうか。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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