10月12日 <大政翼賛会が発足。(1940年=昭和15)>

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1940年(昭和15)のこの日、「大政翼賛の臣道実践」をスローガンとして大政翼賛会が発足しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1930年代後半、軍部の政治的な発言力が高まっていったのに対し、政党の発言力が低下していきました。政党の間からは軍部と協力して力を取り戻そうとする動きもありました。丁度その頃、第二次世界大戦のヨーロッパ戦局が、ドイツの軍事的優勢に展開していました。その情勢を背景にして、日本でも1940年(昭和15)6月頃から、指導力を失った既成政党に代わって、近衛文麿を押し立て、ナチ党や共産党のような一国一党の強力な全体主義的国民組織を作り上げようとする新体制運動が活発になっていったのでした。

 

陸軍も新体制運動を支援し、近衛内閣を成立させる為に策を弄して、同年7月に米内内閣を退陣に追い込んだのです。その後、既成政党や諸団体が次々に解散し、この新体制運動に参加していき、最後までこの運動に消極的であった立憲民政党も抗しきれず、8月15日に遂に全政党が解散してしまいました。

 

同年8月23日に、第二次近衛内閣が各界有力者を集めて設置した新体制準備会での議論を経て、

同年9月27日の閣議決定に基づき、

同年の今日、「大政翼賛の臣道実践」をスローガンとして大政翼賛会が発足しました。総裁は近衛文麿。機構は総裁の下に中央本部事務局と中央協力会議とを置き、その下に各自治体レベルの支部と協力会議とが配置されました。自治体レベルは1.道府県、2.郡、3.市区町村の階層でした。

 

この様な全国的な一党組織ではありましたが、この大政翼賛会の性格をめぐっては発足当初からかなり議論され、翼賛会が政治性をもつことは憲法違反の恐れがあるとされてしまったのです。そのため1941年(昭和16)2月には政治運動の中心としての性格を否定し公事結社と称する事にしました。最初意図した様なナチ党の様な一国一党的な政治的な組織とはならず、色々な思惑をもった諸勢力を寄せ集めた団体でしかなかったのでした。その役割も、内務官僚主導の精神運動組織、上意下達のための組織にとどまったのでした。

 

当初の思惑とは、遠くかけ離れた組織になったとはいえ、この大政翼賛会は、のちには産業報国会・大日本婦人会・町内会・部落会・隣組などを含む諸団体を傘下に収め、太平洋戦争の戦時下において、政府の意思を国民に伝え、戦争遂行のために国民を広範に動員するうえで非常に大きな役割を果たしたのでした。

 

こうした経緯で、成立し変貌しつつ発展した大政翼賛会でしたが、1945年(昭和20)6月に国民義勇隊が発足したことにともなって解散しました。

 

愚かなこと…と言って済ませられない、ほんの数十年前に起こった我々の歴史です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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