1767年(明和4)のこの日、江戸幕府は間引き禁止令を発布しました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
間引きは、もともとは、植物の苗が密植した状態であった場合、生育を十分にさせるために少数の苗を残して残りを抜いてしまう作業のことを言います。
今回の記事にある間引きは、それとは違い
生まれたばかりの子を窒息もしくは圧死させ、子供の数を人為的に調整する
というものです。
この間引きは「モドス」「オッカエス」とも言い、異界からの授かりものである生児をそこへ再び返すという気持ちが含まれた言い方でもあったのです。
江戸時代には間引きの非人間性をさとす印刷物や絵馬が広く流布したそうです。ネットで調べたところ茨城県利根町公式ホームページに徳満寺の間引き絵馬の画像があったので借りて来ました。母親が赤ん坊のの口をふさいでいる様が描かれています。
この絵馬を見た柳田国男は次の様に述べています。
……約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、私の印象に強く残っ ているいるのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右 手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄が、産褥の 女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なもの であった。障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。その傍らに 地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子ども心に理解し、寒いよ うな心になったことを今も憶えている……
(柳田國男「故郷七十年」より)
江戸幕府としても、この間引きはあまり喜ばしいことではありませんでした。間引きによって人口が抑制されると、農村からの年貢収入に経済的基盤を置いている江戸幕府にとって(諸藩もまた同じ)収入が増えない…ということに繋がるからです。
そうした背景から、江戸幕府は1690年(元禄3)には棄児禁止を布告しています。そこでは
実子を捨てたものは流罪、もらい子を捨てたものは獄門、絞殺したものは引き回しの上、磔に処する
と規定されていました。
さらに、1767年(明和4)のこの日、間引き禁止令が江戸幕府から発布されています。
その後も、1832年(天保3)には堕胎術禁止、1842年(天保13)堕胎の禁令を出していることから、この間引き・堕胎が社会問題化していたことが伺われます。
こうした間引きの原因は貧困にある、とするのが通説ですが、そうではなく、人口増加を未然に抑えて一定の生活水準を維持するための予防的措置であったとする見解もあります。いずれにしても、トリガーが貧困(可能性を含めた)にあったことは間違いなさそうです。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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