10月 出来事

10月21日 <源義経が、兄頼朝と初対面(1180年=治承4)>

今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

源義経は1159年(平治元)に生まれ、1189年(文治5)閏4月30日に亡くなっています。

 

この生まれた1159年(平治元)には京都で大きな内乱が起こっています。平治の乱です。1156年(保元元)に起こった保元の乱以降、後白河上皇の近臣間では藤原通憲(ふじわらのみちのり、信西のこと)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激化していました。藤原通憲は、畿内を中心に西国を基盤とする平清盛と手を結び、一方の藤原信頼は源義朝と手を結びました。そして1159年(平治元)に、清盛の熊野詣の隙を突いて挙兵し、攻撃を受けて抗しきれなかった藤原通憲は自ら世を去る選択をしました。藤原信頼は、一旦は京都を制圧しましたが、清盛が帰京すると武力にまさっていたこともあり、更には寝返る者もあり、藤原信頼は滅ぼされてしまいます。東国に逃れた源義朝も途中で討たれ、その子源頼朝も捕らえられて伊豆に流されてしまいました。これが平治の乱です。

 

この平治の乱の年に生まれた源義経は、源義朝の九男でした。母は常盤御前(ときわごぜん)。平治の乱で源義朝が亡くなったあと、常盤御前は三人の子供(今若・乙若・牛若→義経)の助命を請い出頭しました。その甲斐あって、牛若は鞍馬寺に流され、その後奥州藤原秀衡のもとに身を寄せます。源頼朝と源義朝とは異母弟なんですね。物心つく前に、源頼朝と義経をは離れ離れになってしまい、顔を合わせる事はなかったのです。

 

平清盛はその後、平氏の専制的政権を築き上げましたが、貴族や大寺社、地方武士には平氏への不満が根強く残っていました。1180年(治承4)に、清盛が孫である安徳天皇を位につけると、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)は、園城寺(おんじょうじ)や興福寺(こうふくじ)を味方につけ平氏を打倒するために挙兵しました。大寺社の僧兵が一本化するのを恐れた清盛はただちに反抗し、この挙兵は抑え込まれました。ところが、決起を呼びかける以仁王の令旨(りょうじ)は諸国に伝えられ、これに呼応した武士たちが相次いで挙兵する事態になったのです。この内乱状態を治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱といいます。

 

平治の乱の後、伊豆に流されていた源頼朝もとにも、以仁王の令旨が叔父源行家から伝えられ、1180年(治承4)8月、頼朝は妻政子の父である北条時政らと挙兵しました。石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親(おおばかげちか)らに破れて海路安房国に逃れた頼朝のもとには、代々源氏に仕えていた東国の武士たちが続々と馳せ参じ、頼朝は10月には源氏の本拠地であった鎌倉に入ります。これに対して清盛は孫の平維盛(たいらのこれもり)を大将として頼朝討伐の軍を派兵しましたが、平氏軍は駿河国の富士川で源氏の軍に大敗し京都に逃げ帰ったのです。この戦いが、富士川の戦いです。この戦いでは、水鳥の飛び立つ音で驚き、源氏の夜襲と間違えて敗走した…といわれています。

 

兄の頼朝が挙兵した事を知った義経はその軍に加わるために駆け付け、1180年(治承4)の今日、富士川の戦いで歴史的大勝利を収めた直後の頼朝と、初めての対面を果たしました。その時、弟義経は21〜22歳、兄頼朝は33歳。一説によれば「涙の対面」だったそうです。さもありなん、ですねぇ。

 

それから、義経は代官として兄の源範頼(みなもとののりより)とともに東国武士を率いて上洛し、源義仲や平氏一門を追討し、連戦連勝を収めますが、その後にはとんでもない悲劇が…そうした話題はまた別項で。

 

余談ですが、この常盤御前は出頭した後、平清盛の妾となり、廊の御方(ろうのおんかた:藤原兼雅の妻)を産んだ…という説もあります。その後、常盤御前は大蔵卿藤原長成の妻となり、能成を生みました。

 

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