1454年(享徳3)のこの日、室町幕府は頻発する土一揆に対し徳政禁止で臨んで来た室町幕府が、永代売買を除く質入地に債務額の1/10を幕府に納入することを条件として徳政を認める分一徳政令を発布しました。
これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
中世初期の荘園や公領では、耕地の間に屋敷がまばらにポツンポツンと点在する散居形態が一般的でした。ところが、鎌倉時代の後期になると、関西では屋敷が耕地から分離して集合し、次第に集落を形成するようになっていきました。農民たちが自らの手で作り出した自治的な村を惣(そう)とか惣村(そうそん)といい、これらの惣村が、さらに大きな支配単位である荘園や郷を中心にまとまった惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)と呼ばれる大きな強い結合体を結成することも多く見られました。関東や東北でも、集落は見られましたが近畿地方ほど自治的な結びつきではなく、そのゆるやかな集落の社会体制を郷村制と呼ぶこともあります。
この惣村を母体とした農民勢力が結集して大きな力となり蜂起した出来事が、1428年(正長元年)に起きた正長の徳政一揆(土一揆)で、これは当時の中央政界に大変大きな衝撃を与えました。大乗院日記目録には以下の様な記述があります。
(正長元年)九月 日、一天下(いちてんか)の土民(どみん)蜂起す。徳政と号し、酒屋・寺院等を破却せしめ、雑物(ぞうもつ)等恣意(ほしいまま)にこれを取り、借銭等悉(ことごと)くこれを破る。官(管)領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基(もとい)、これに過ぐべからず。日本開闢(にほんかいびゃく)以来、土民蜂起是(こ)れ初めなり。「大乗院日記目録(原漢文)」
この年の9月、京都近郊の惣村の結合をもとにした土一揆が徳政をもとめ、京都の土倉・酒屋などを襲って、質物や売買・貸借証文を奪いました。こうした徳政一揆は、近畿地方やその周辺にまたたく間に広がり、各地で実力による債務放棄・売却地の取り戻しなどの私徳政(しとくせい)と呼ばれる動きが展開されました。徳政とはこうした、債務破棄、売却地の取り戻しのことをいいます。
ついで、1441年(嘉吉元)、数万人規模の土一揆が京都を占領し、嘉吉の徳政一揆(土一揆)では、農民たちは「代初めの徳政」を要求し、幕府も押し切られてこれを認めざるを得ずに、ついに徳政令を発布しました。正長の徳政一揆は足利義教(あしかがよしのり)が6代将軍になることが決まったとき、嘉吉の徳政一揆は足利義勝(あしかがよしかつ)が7代将軍になることが決まったときに起こった様に、中世社会には天皇や将軍といった支配者の交代(代替わり、代始め)などによって、所有関係や貸借関係を清算するという思想があったのです。
こののち、土一揆はしだいに支配者の交代とは無関係に、毎年のように徳政をもとめて各地で蜂起し、私徳政を行うとともに徳政令の発布を要求し、幕府もそれを濫発するようになっていきました。その土一揆頻発の背景には、高利貸資本が農村にも浸透し、債務の増大によって土地を剥奪された農民たちの土地返還請求があったようです。
幕府は、土倉・酒屋から徴収する土倉役・酒屋役を重要な財源としていたので、その税収源たる業者を衰退させることにもなる徳政令は、自らの首を締めることにもなりかねませんでした。そこで、幕府が考案したのが分一銭(ぶいちせん)の制度です。これは、債務者が債務額の10%ないし20%の手数料(分一銭)を幕府に納入すれば徳政令を適用して債務破棄を認め、逆に土倉が債権額の10%ないし20%の手数料(分一銭)を幕府に納入すれば土倉の債権を確認して徳政令の適用を免除するというもので、幕府にしてみれば、どちらに転んでも一定の手数料収入が得られるウマウマの仕組みでした。
1454年(享徳3)5月、播磨国で土一揆があり、6月には東福寺の関所設置に反対して京都近郊で土一揆が蜂起、そして9月に徳政を求めてこれまた京都で土一揆が蜂起。これに対して幕府は、一旦徳政禁制発令したのですが、その後同年の今日、分一徳政令を発布したのでした。この制度は、この享徳の土一揆以降、恒例化していきました。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
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