10月14日 <信濃松本藩で嘉助騒動が起こる(1686年=貞享3)>

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1686年(貞享3)のこの日、信濃国安曇郡中萱村(なかがやむら)の庄屋であった多田嘉助が率いる百姓達1700人が松本城下に押し寄せ、5ヶ条の訴状を提出しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

百姓は村請制のもとで年貢や諸役など重い負担に耐えていましたが、幕府や藩の年貢増徴や新たな課税が彼らの生活や生産活動を大きく損なうときには、領主に対して村を単位として要求をかかげ、しばしば直接行動を起こしました。これを百姓一揆と呼び、江戸時代の間に3,000件以上が確認されています。その年ごとの発生件数は、江戸時代を通じて概ね増加の一途をたどりましたが、不作で飢饉が起こった時は急激に増加することもありました。

 

百姓一揆の形態は、年代とともに変化を見せます。

江戸時代初期の17世紀初めには、徳川家や新しい領主の支配に抵抗する武士も加えた武力蜂起や逃散(ちょうさん)など、まだそれ以前の時代の一揆の名残が見られました。

しかし、17世紀後半からは、村々の代表者が百姓全体の利害を代表して領主に直訴する代表越訴(だいひょうおっそ)型の一揆が増え、下総の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)や上野の磔茂左衛門(はりつけもざえもん)といった、伝説的な一揆の代表者も現れ、これらの者は後世に義民とされました。

17世紀末になると、村を越えた広い地域の百姓が団結しておこす大規模な惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)も各地で見られるようになり、一揆の範囲が藩領全域に及ぶ場合を全藩一揆(ぜんはんいっき)と呼んでいます。例えば、今日ご紹介する1686年(貞享3)の信濃松本藩の嘉助騒動や、1738年(元文3)の陸奥磐城平藩の元文一揆などが代表例です。

 

こうした一揆に参加した百姓らは、年貢の増徴や新税の廃止、専売制の撤廃などを藩に要求し、ときには藩の政策に協力した商人や村役人の家を打ち壊す実力行動にも出ました。幕府や諸藩は、一揆に押されて要求を部分的に認めることもありましたが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者は厳罰に処されました。

 

1686年(貞享3)の今日、信濃国安曇郡中萱村(なかがやむら)の庄屋であった多田嘉助が率いる百姓達1700人が松本城下に押し寄せ、5ヶ条の訴状を提出しました。松本藩ではその前の年から二年続きの凶作で、百姓の生活は困窮を極めていました。それにも関わらず、藩は年貢の三割増しを布告したので、その暴政に抗議する為行動を起こしたのでした。事態は膠着状態になり、三日目には百姓たちは、城下の米屋や御用達商人の家を襲い、いよいよ打ち壊しの様相を呈してきました。

事態が、一旦解決したのは一揆が始まって五日目の10月18日でした。

 

藩は、全面的に譲歩し、嘉助らが提示した要求を受け入れたのです。百姓たちは意気揚々と引き上げて、それぞれの村に帰っていきました。

 

ところが、その翌日には、事態は急展開します。幕府の指示を受けた江戸藩邸からの命令で弾圧が始まったのでした。その結果、首謀者ら28名が、処罰を受けて亡くなっています。もちろん、要求受け入れも反故にしました。

 

ここで話は、終わらないのです。実は、ものすごい後日談があります。

時は下って1725年(亨保10)、その当時の松本藩主水野忠恒は殿中で刃傷事件を起こして、水野家は改易となってしまいます。この騒動は嘉助の怨霊による祟りと噂され、一旗本となった水野家は嘉助の像を作り、供養を続けたといいます。さらに時代は下り、1880年(明治13)、その頃は自由民権運動が華やかで、顕彰活動も活発に行われ、嘉助は「義民「「自由民権運動の先達」として顕彰され、嘉助の屋敷跡には貞享義民社が建っています。そこの祭られているのは、もちろん多田嘉助です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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