10月14日 <徳川光圀が隠居(1690年=元禄3年)>

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1690年(元禄3)のこの日、徳川光圀は病気を理由に願い出た隠居の許可を貰いました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「水戸黄門漫遊記」が創作されたり、テレビドラマでお馴染みの水戸黄門こと徳川光圀は、老衰を理由に隠居を願いでて、327年前の今日、その許可が出て藩主の職を退いたんですねぇ。

 

一説には、光圀と江戸幕府第代将軍徳川綱吉との仲が悪く、綱吉から圧力がかかったためと言われています。というのも生類憐れみの令に対して批判的な態度を取っていたそうです。

 

水戸徳川家の家督は、兄頼重の子の綱条(つなえだ)が継ぎました。それには以下の様なことがあったのです。

三男坊であった光圀は1633年(寛永10)に兄を差し置いて家督を継ぎ、1661年(寛文元)常陸国水戸藩の2代目藩主となっていました。

そうした経緯があったため、光圀は兄の血筋に家督を譲ろうと決意しており、綱条を跡継ぎに決めていたのだそうです。

 

隠居を願い出たあと、光圀は常陸国久慈郡新宿村に西山荘を建てて隠居したのでした。

藩主の間の光圀は名君の誉れが高く、

  • 幕府に先駆けて殉死を禁止…1661年(寛文元)
  • 藩士の規律や士気の高揚を図る…
  • 藩内の寺院の整理を行った……1667-8年(寛文6-7)

隠居した後も

  • 八幡神社の整理と一村一社制の確立……1696-1700年(元禄9-13)

といった施策を行いました。

あと光圀で忘れてはならないのが、藩主就任前の1657年(明暦3)には「大日本史」の編纂という大事業に着手しています。この「大日本史」が完成したのは何と1906年(明治39)、実に349年間もかかったのですよ。さらに、万葉集研究史上重要な注釈書である「釈万葉集」の編纂なども光圀が手がけたものです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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