10月15日 <佐藤義清が出家して西行と号しました(1140年=保延6)>

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1140年(保延6)年のこの日、北面の武士として朝廷に仕えていた佐藤義清が、世の無常を感じ、妻子を捨てて出家して西行と号しました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平安時代末期の歌人として名高い西行は、もともとは武士の家の生まれでした。俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、父は佐藤康清、母は源清経の娘でした。最初は、鳥羽上皇の時代、その北面の武士として仕え、和歌・蹴鞠(けまり)などに活躍したそうです。

「北面の武士」というのは、院の組織の一つで、上皇の身辺警護をその職務です。上皇の御所の北面(きたおもて)の詰所にてお仕えしました。武芸にすぐれた者が任じられる名誉ある地位と考えられ、文武において朝廷では華々しい活躍をした、ということです。この院の武力組織は、鎌倉時代に起こった承久の乱以降衰退し、室町時代以降は組織上の一職掌としてのみに形骸化しました。

 

さて、話を戻して、この武家の子佐藤義清ですが、1140年(保延6)年の今日、出家して西行と号しました。世の無常を感じ、妻子を捨てて出家したそうです

 

出家した西行は、仏道や和歌に励み、高野山や伊勢国に住む一方で、奥州・四国などを行脚しました。

 

西行の存命中は。1151年(仁平元)頃成立の「詞花和歌集」に1首、1188年(文治4)成立の「千載和歌集」に18首入集しましたが、西行が亡くなった後の1216年(建保4)に完成した「新古今和歌集」には最多の94首が選ばれ、歌人としての名声が高まりました。

 

また家集としては、特に「山家集(さんかしゅう)」が有名ですが、その他にも「西行上人集」「聞書集(ききがきしゅう)」「残集」などがあり、自撰集も「山家心中集(さんかしんちゅうしゅう)」、「御裳河歌合(みもすそがわうたあわせ)」「宮河歌合」などがあります。山家集の歌についての評価は「花月をはじめとした自然や庵居・行旅の生活。風物を詠じつつ、表現の自在さに支えられて実感を表出するところに独自の境地がある。」…だそうです。

 

西行は、生涯孤独を愛する漂白の人生を送り、動乱の諸国を旅する歌僧として伝説化され、その清新な和歌とともに後世の文学に大きな影響を与えました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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