1321年(元亨元)のこの日、後醍醐天皇は鎌倉に下っていた乳父の吉田定房を通じて幕府と折衝し、天皇親政の了解を得ました。
これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1221年(承久3)に起こった承久の乱後、朝廷では上皇による院政が行われていました。皇位の継承と治天の君として院政を行う上皇の認定とに、幕府は深く関与していました。
北条泰時の後押しによって即位した後嵯峨天皇は、やがて後深草天皇に譲位して後嵯峨上皇となって院政をしき、ついで後深草天皇の弟の亀山天皇を皇位につけました。ところが、後嵯峨上皇は院政の後継者を指名せずに死去し、皇統は
- 持明院統:後深草上皇の流れをくむ系統
- 大覚寺統:亀山上皇の流れをくむ系統
とに分裂してしまいました。両統は皇位をめぐって争い、また、膨大な天皇家領荘園の相続をめぐっても争いました。持明院統は長講堂領という180ヶ所に及ぶ荘園群を、そして大覚寺統は八条院領という220ヶ所の荘園群を獲得し、互いにさらに多くの荘園の領有を目指しました。
両統は天皇位の交代の度に、次代の天皇を自統から出そうと幕府に画策する状態が続いたので、幕府は両統が交互に即位する両統迭立を勧め、1317年(文保元)には次代の皇位については両統合議のうえ決定するように申し入れました。両統は幕府の勧告にしたがって協議したのでした。この協議を文保の和談と呼びます。そして、この時幕府は、今後の皇位継承に関して干渉しない旨を、朝廷に対して宣言したそうです。
さて、文保の和談ののち、1318年(文保2)に即位したのが後醍醐天皇でした。
はじめは後宇多上皇の院政でしたが、宋の朱子学を学んだ天皇は、政治に強い意欲を示していました。
すでに天皇としては異例の34歳に達し、大覚寺統の惣領として政務を決済するに十分であったため、1321年(元亨元)のこの日、後醍醐天皇は鎌倉に下っていた乳父の吉田定房を通じて幕府と折衝し、父後宇多上皇の院政を排して天皇親政を行うことにつき了解を得ました。
家格にとらわれずに人材を登用し、記録書の機能を盛んにし、延喜・天暦の時代を模範としてその再現を目指しました。
2.他の年、この日の記事
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今日はここまでです。
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