10月18日 <江戸町火消が設置されました(1718年=享保3)>

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1718年(享保3)のこの日、町奉行大岡忠相は、町人を消防活動に積極的に使うために、町年寄に町火消設置令を申し渡しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉がありますが、江戸は大きな火災が相次いでいました。そうした火事の際の火消しの華々しい働き振りと、気の早い江戸っ子の威勢が良くて派手な喧嘩とが江戸らしさの代名詞の一つだったのでしょうね。

 

さて、その火事のときに活躍した火消しですが、江戸時代の各都市の設けられた消防組織です。消火活動というよりは、鳶職(とびしょく)の人たちによる破壊活動によって延焼を防ぐ、という活動だったようです。

 

江戸には、武家のための大名火消、幕府の職制のなかにある定火消(じょうひけし)、そして町方の町火消とがありました。

 

1657年(明暦3)に発生した明暦の大火以降も、江戸では大きな火事が度々起こりました。江戸幕府による都市政策の一環として、延焼を防ぐため広小路(ひろこうじ)や空き地などの火除け(ひよけ)地が設けられたり、土蔵造りが奨励されたりしました。また、それまでの幕府の定火消しに加え、町火消を整備するために、1718年(享保3)の今日、町奉行大岡忠相は、より積極的に町人を消防活動に使うために、町年寄に町火消設置令を申し渡しました。

 

それまでも、明暦の大火の翌年の1658年(万治元)には日本橋南地域で火消組合が成立していましたが、この町火消設置令を受け、出火の際には、火元周辺の6町から合計180人の火消人足を出すことと決められました。さらに、1720年(享保5)には、約20町ごとの「いろは47組」が設定され、江戸全域での本格的かつ恒常的な組織が確立されたのです。このいろは47組は、1730年(享保15)には大組10組に編成され、さらに後には48組・大8組と何度か改組されました。

 

火消の組には頭取・纏持(まといもち)・梯子持(はしごもち)・平(ひら)の職階がありました。始めの頃は駆けつけとして各町の召使・店借層が人足を務めましたが、消火活動能力の問題から、割合早い時期から、専業の抱鳶(かかえとび)が出てきました。活動領域も、時とともに拡大し、当初は町方領域に限られましたが、のちに大名火消・定火消の領域にも進出していきました。

 

町火消の話はここまでですが、以下に大名火消・定火消について簡単に補足しておきましょう。

 

大名火消とは、江戸幕府が大名に課した火消役のことです。江戸には所々火消・方角火消・近所火消と臨時の増火消があり、大名の石高に応じて出動人員が決められていました。当初は火災の度に老中奉書で出動を命じていましたが、1643年(寛永20)には恒常的な組織になり、その後も改編整備されました。

定火消とは、江戸の防火にあたる江戸幕府自身が持っていた組織。職制です。明暦の大火の翌年の1658年(万治元)に創設された時は4人、1704年(宝永元)以降は10人が任じられました。任じられた者は、火消し屋敷と与力6人・同心30人を与えられました。さらに、実際の消火にあたる臥烟(がえん:定火消に召し抱えられた火消人足のこと)を雇用し、消火隊を形成しました。当初は江戸市中を消火対象としましたが、後年、町火消が整備されたので城郭内に出動範囲が限定されました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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