10月19日 <泉鏡花、尾崎紅葉に弟子入り(1891年=明治24)>

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1891年(明治24)のこの日、泉鏡花は尾崎紅葉を訪ね、入門を許されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1873年(明治6)に石川県金沢市に生まれた泉鏡花は、本名を鏡太郎といいます。後年「高野聖」で文学史上に名を残す鏡花も、若い頃は苦労もあったようです。

その鏡花が文学を志すのは、1889年(明治22)に友人の下宿で尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔(ににんびくにいろざんげ)」を読んだことがきっかけだったそうです。そして、紅葉に入門しようとして金沢から上京しましたが、訪問の機会を得ず、知人のもとを転々として飢えに苦しんだそうです。

 

そして、遂に…

1891年(明治24)のこの日、牛込区横井町(現・新宿区横寺町)にあった尾崎紅葉の自宅を訪ねることが出来、紅葉から入門を許されて、それ以降(その日から!)3年間紅葉宅に寄宿し書生生活を送りました。

 

小生は泉鏡花に関して余り語るものがありません、Wikipediaを読んだ所、「潔癖症」という段落があり、とても面白かったので以下にご紹介しますね。

  • 鏡花は有名な潔癖症で、生ものは食べない主義であった。このことは文壇に広く知られていた。貰い物の菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、掴んでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がったという。
  • 外出時は常に小さなアルコールランプと五徳と小鍋を持ち歩き、一流料亭の料理ですら、全てをごった煮にして食べていた。 また、鉄道旅行中に、お茶を飲もうと、座席の上でアルコールランプでお湯を沸かしていた。それを見た他の乗客が「座席が燃えている!」と勘違いして、車掌を呼ぶ騒ぎになった。
  • 潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。しかしそのわりに豆腐そのものは好きでよく食べ、貧乏時代はおからでもっぱら飢えをしのいだ。ただし、冷奴ではなく湯どうふで、スが立つまで煮込まれ「これじゃ湯どうふじゃなくて、ふっとうふだ」と、仲間から、からかわれていた。
  • 谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、泉の潔癖症を知らない谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しか怖くて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。
  • 中華料理に誘われて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」と慌てて宝丹(胃腸薬)を一袋全部飲んだことがある。生ものは無論だが、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクな形をしたものも絶対に口にしなかった。
  • お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめて厚く神社仏閣の前ではかならず土下座したと伝えられる。また、自宅の天井板の合わせ目には全て目張りを行っていた。
  • 狂犬病を恐れて犬嫌いだった。蛇も嫌いだったそうだが、作品にはよく登場する。
  • 喫煙者で煙管を愛用していたことでも有名だが、吸い口が汚れない為に妻の手製のキセルキャップを愛用していた。そのキャップを付ける動作があまりにも素早かった為周りの人が感嘆していた。
  • お手伝いさんに2階に登る階段の掃除をさせるのに、1段1段専用の雑巾を使わせた。 また、「ネズミが入って不潔だ」と、食器棚を台所の天井からぶら下げさせ、食器をそこにしまわせていた。

(Wikipedia「泉鏡花」から引用)

 

以下にリンクを貼り付けた「高野聖」ですが、その他に「義血侠血」「夜行巡査」「外科室」「眉かくしの霊」も収録されており、泉鏡花をまだ読まれて居ない方にはお勧めですよ。


高野聖 (集英社文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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