10月20日 <富士川の戦い(1180年=治承4)>

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1180年(治承4)のこの日、源平の間で行われた合戦の一つ「富士川の戦い」がありました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

源義朝の子の源頼朝は、平治の乱のあと伊豆に流されていました。

1180年(治承4)4月、その伊豆で以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)を叔父の源行家から伝えられた頼朝は、平氏打倒のための挙兵を決意したのでした。

 

同年8月、頼朝は、妻政子の父である北条時政らと挙兵しました。石橋山での戦いでは平氏方の大庭景親(おおばかげちか)らに破れて海路安房国に逃れましたが、代々源氏に仕えていた東国の武士たちが続々と頼朝のもとに馳せ参じてきました。

 

同年10月には、頼朝は源氏の本拠地であった鎌倉に入り体制を立て直しました。

一方の平氏は、平清盛が孫の平維盛を大将として頼朝追討の大軍を編成し、9月29日に京都を出発して東国に向かいました。

 

維盛の率いる東征軍は、途中で反平氏の武士の抵抗にあい、苦しみながら東へと下って行きました。また、途中で兵員を徴募しながら進む予定も、思ったとおりにならず、折悪しくその夏は日照りで凶作であったため糧食の調達もうまく行きませんでした。そんなこんなで、士気も上がらない軍隊がヘロヘロになって富士川べりまでやってきました。

 

そして、1180年(治承4)の今日、平維盛(たいらのこれもり)率いる東征軍と甲斐源氏を中心とする源頼朝方の軍勢とは、駿河国富士川を挟んで、平氏は富士川西岸に、源氏は賀島(現静岡県富士市)に対陣しました。

 

ところが、平家物語には、平氏方の軍勢は7万余騎となっていますが、実際のところは4,000騎程度しか居なかったようです。さらに、数百騎は、友軍の目の前で敵軍に投降し、その他も逃亡者が多数で、残兵はわずか2〜3,000騎です。

相対する源氏方は甲斐源氏が4万騎、その他に頼朝が大兵力を率いて駆けつけてくる…という状況が分かり、兵力の劣勢を悟った維盛は、夜になって陣の撤収を決意したのです。

 

しかし、何に驚いたか、富士沼にいた数万羽の水鳥が一斉に飛び立ったのです。

 

「源氏の夜襲だ!」

 

丁度、撤収退却の命令がでたばかりの時の出来事だったものですから、平家の軍勢はあわてふためき、我勝ちに…と敗走しました。

 

このとき、退路にあたる手越(現・静岡県静岡市付近)の宿で源氏に内応する者の放火があり、平氏も初めは遠江国あたりで体制を立て直す予定だったのですが、それどころではありません。

大将の維盛がわずかに10騎の兵で京都に逃げ帰ったのをはじめ、もうバラバラの状態で四散して逃げ帰った、といわれています。

 

 

この際、頼朝は追討軍を追ってただちに上洛しようとしましたが、関東の平定が急務とする上総介広常(かずさのすけひろつね)・千葉常胤(ちばつねたね)らの進言で、鎌倉に兵を返して東国の経営に専念しました。この勝利以降、頼朝の関東における基盤が確立されたのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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