10月20日 <蒙古、本土に襲来!…文永の役(1274年=文永11)>

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1274年(文永11)のこの日、元の大軍が博多湾の今津・百道原(ももちばる)(現在の福岡鎌倉辺り)に上陸し、日本の御家人との間で激戦が展開されました。元軍は日没とともに博多湾上の船に撤退しますが、夜半の暴風雨のため合浦に退却してしまいました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

高麗を征服したモンゴル(1271年から国号は元)のフビライ・ハーンは、1268年(文永5)高麗を仲介として使者・国書を日本に送り、服属&朝貢を求めてきました。鎌倉幕府は返書を送らない事に決め、西国の守護たちに「蒙古の凶心への用心」を指令しました。外交についての権利は朝廷ではなく、幕府が持っていたのですね。

 

その時の幕府を指揮していたのは弱冠18歳で執権の座についた北条本家の時宗でした。時宗は北条政村ら一門の長老たちのバックアップを受け、元への対応を行っていました。1268年(文永5)の後も5回に渡り元は国書を送ってきました。朝廷は元の要求を拒否するにせよ返書を送ってはどうか?と提案し、草案まで作成しましたが、時宗は断固としてこれを拒絶したのです。そして、元の使者や国書を黙殺したのです。大したガン無視です!そして、その間にも九州地方に所領をもつ東国の御家人に、九州に赴いて異国からの防御にあたることを司令し、筑前・肥前の防衛を厳重にしました。

 

1274年(文永11)1月、元は支配下に置いた高麗に900隻の造船命令を出し、突貫工事で造船を急がせました。そして同年10月3日、元は忻都(きんと)・洪茶丘(こうさきゅう)を将として、元兵2万と高麗兵8000とを兵船900隻に乗せ、朝鮮南端の合浦(がっぽ)を出発させました。目指すは生意気な日本です。

 

元軍は10月5日に対馬に上陸して、守護代の宗資国(そうすけくに)を討ち破ります。次いで10月14日に壱岐を襲撃し、ここでも守護代平景隆らが亡くなります。そしてこの日の10月20日、博多湾の今津・百道原(ももちばる)(現在の福岡市の辺りです)に上陸し激戦が展開されました。日本は九州の御家人たちを動員してこれを迎え撃ちましたが、元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれた火器の前に、一騎打ち戦法を主とする日本軍は大苦戦し太宰府近くの水城(みずき)まで退却します。元軍は日没とともに博多湾上の船に撤退しますが、夜半の暴風雨のため合浦に退却してしまいました。

 

この元の遠征が失敗した原因としては

  1. 元・高麗の混成軍であり兵士の士気が低かったこと
  2. 同じく混成軍であったために、指揮官間の確執があったこと
  3. 造船条件が劣悪であったこと

などがあげられます。暴風雨が実際にあったかどうかは10月20日は現在の太陽暦では11月末にあたり時期的にも台風説は疑問視されています。日本人側は「昨夜吹いたのは神風!」と思い込んだそうですが、この真偽は決着をみていません。

 

この文永の役の後、幕府は戦闘に参加した武士に恩賞を与え、元軍の再来に備えて異国警固番役の制度を作りました。さらに、博多湾には石築地(いしついじ)の防塁を築造し、防御を固めました。一方、元のチンギス・ハーンも再度日本を侵攻してくるのでした。その話は、また別項の弘安の役で、ということにしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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