10月22日 <桓武天皇が、山背の新京に遷られました(794年=延暦13)>

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794年(延暦13)のこの日、桓武天皇は皇太子以下公卿を従えて新京にお入りになられました。、

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

781年(天応1)に、光仁天皇と渡来系士族出身の高野新笠(たかののにいかさ)との間に生まれた山部親王(やまべしんのう)が即位し、桓武天皇(かんむてんのう)となりました。

 

桓武天皇は、光仁天皇のとった政策(①行財政の簡素化、②公民の負担軽減などの政治再建政策)を受け継ぐとともに、新しい王朝の基盤を固め、それまでの仏教政治の弊害を断つ意味も込めて、784年(延暦3)に大和の平城京から山背(やましろ)国乙訓(おとくに)郡長岡の長岡京に遷都しました。しかし、遷都に反対する勢力もあって、785年(延暦4)には桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が矢を射られて亡くなってしまいます(桓武天皇が平城京に行幸されたその隙を突いた凶行でした)。この事件をめぐって、皇太子の早良親王(さわらしんのう)や大伴氏・佐伯氏の一派の数十人が退けられたのですが、幽閉された早良親王は自ら食を断って、淡路国に移送される途中、淀川あたりで事切れてしまいました。

 

その後も貴族層内の対立が表面化する一方、桓武天皇の母や皇后が相次いで崩御されたのです。こうした不幸が早良親王の怨霊によるものとされるなか、今度は792年(延暦11)に二度もわたる洪水に見舞われたこともあり、遂に長岡京の廃都が決定されました。

 

この792年(延暦11)1月と5月には、その時点で朝廷内部で新京の地として選定されていた葛野(かどの)郡宇太(うだ)村に、狩猟が好きだった桓武天皇が巡覧なさっておられます。その翌年の793年(延暦12)1月15日に、天皇は大納言藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)・左大弁紀古佐美(きのこさみ)らを派遣して、その葛野の地を視察させています。その視察で新京への遷都は決まり、何と6日後の1月21日には長岡京の取り壊しに掛かっています。

 

そして794年(延暦13)のこの日、桓武天皇は皇太子以下公卿を従えて新京にお入りになられました。

 

その直後の宣命のなかで、桓武天皇は

「葛野の大宮地(おおみやところ)は、山川も麗しく、四方(よも)の国の百姓(ひゃくせい)も参出来たらん事も便(たより)にして…」

と、その新しい都の地にご満悦の思いを表されています。

 

山背の国を山城国とし、新京を平安と称するまでにはなお二週間ほどを要した11月8日の詔まで時間がかかりました。その詔には以下の様にあります。

「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。斯の形勝に因りて、新号を制(さだ)む可し。宜しく山背の国を改めて、山城の国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰ふ」

(現代語訳:この場所は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)

 

これ以降、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心はこの平安京にありました。その約400年にわたる時代が平安時代です。平安京は東西4.5km、南北5.2kmの規模で、その条坊の名残は今の京都の町並みや道路に姿をとどめています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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