10月24日 <ノルマントン号事件発生(1886年=明治19)>

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1886年(明治19)のこの日、英国貨物船ノルマントン号が紀州大島沖で沈没しました。その際、英国人乗務員は全員ボートで脱出しましたが、日本人乗客は全員水死しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代末期に幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を平等な条約に改めようとする条約改正問題は、明治維新以来、常に欧米列強と国際社会で肩を並べることを目標に近代化につとめてきた日本にとって、喫緊(きっきん)の課題でした。

その中心となる問題は関税自主権の獲得(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)でした。これは政府ばかりか、政府反対派によってもしばしば取りあげられ、政争の焦点になっていました。

 

政府としては、1872年(明治5)6月に岩倉具視(いわくらともみ)特命全権大使が米国との条約改正交渉に失敗したのち、外務卿寺島宗則(てらしまむねのり)に交渉させ、1878年(明治11)7月税権回復につき米国の同意を得て、新しい条約に調印(翌年批准)しましたが、英国などの反対にあって新条約は実施されませんでした。

そのころの日本は、まだ国会や憲法をもたず、国内の諸制度・諸法律なども整っていなかったうえ、国際的地位も低かったので、欧米諸国はなかなか条約改正を認めようとはしなかったのでした。

 

そうしたなかで起きたのが、今日ご紹介するノルマントン号事件でした。

1886年(明治19)10月24日夜、暴風雨のなかを横浜から神戸に向かっていた英国貨物船ノルマントン号(240トン)が、紀伊半島の辺りの大島沖で沈没したのです。

30人の乗組員中、英国人船長以下ヨーロッパ人26人は救命ボートで脱出して救助されましたが、インド人火夫や25人の日本人乗客は全員死亡しました。日本国内でも、激しくこれを非難する声があがりました。

領事裁判制度のため、同年11月9日、神戸の英国領事による海事審判が行われました、船長らは、人命救助に努力したが日本人乗客は英語が判らずボートに乗り移ろうとしなかったと陳述し、過失責任なしと判定されたのでした。

不平等条約に対する日本国民の怒りが高まり、国論は沸騰して日本政府が船長らを告発し、裁判は英国の横浜領事裁判所に移され、同年12月8日、船長に職責怠慢により禁固3カ月とする判決が下りましたが賠償は行われませんでした。

こうしてノルマントン号事件は一応落着しましたが、この事件は不平等条約のもとでの領事裁判の不当性を明白にし、法権回復を急務とする国内世論を急激に高めるきっかけとなったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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