10月27日 <秋月の乱発生(1876年=明治9)>

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1876年(明治9)のこの日、福岡県の旧秋月藩士磯淳・宮崎車之助が士族とともに挙兵しました。秋月(あきづき)の乱と呼ばれる出来事で、その3日前に起こった神風連の乱の乱に呼応した士族の反乱でした。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事は、この時期に各地で頻発した士族の反乱についてです。

1874年(明治7)2月、佐賀の乱が起こると、旧秋月藩士磯淳・宮崎車之助らを中心とする秋月党の士族約450名は佐賀の乱に呼応しようとして不穏な動きを見せましたが、その時は機が熟さずに中止しました。

1876年(明治9)10月24日、熊本の神風連は挙兵するにあたり秋月党が呼応して挙兵するように、次のように呼びかけ、「我党の義気を鼓舞せんが為に、秋月人士より数名を派して声援」するように依頼しました。

ところが、秋月党は「神風連の一挙恃(たの)む足らざるなり」と、必ずしも積極的ではありませんでしたが…、神風連の乱に参加した旧秋月士族の蒲池作之助が鎮台司令官種田政明の首級を見届けて挙兵成功の報をもたらすと、呼応して挙兵することに決しました。

 

挙兵の指導部は磯淳(旧藩小参事、150石)、宮崎車之助(同、石高不詳)、土岐清(同、250石)・今村百八郎らで、その目的は政府の開化政策に反対し、国権の拡張と征韓を要求することにおかれ、守旧派士族の立場からの反政府反乱という性格が強かったのです。

1876年(明治9)のこの日、約230名の士族が参加して遂に挙兵しました。

挙兵計画では、豊前豊津(現・福岡県豊津町)に進んで豊津士族の決起を促し、「神州之元気恢復」を図ろうとするものでしたが失敗し、小倉鎮台の出動で宮崎ら幹部は自刃し、乱は鎮圧されてしまいました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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