10月28日 <萩の乱発生(1876年=明治9)>

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1876年(明治9)のこの日、元兵部大輔前原一誠は山口県萩の明倫館に集結した不平士族の同志332人とともに挙兵しました。同月起こった神風連の乱・秋月の乱に呼応した士族の反乱でした。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事もまたまた士族の反乱です。1874年(明治7)の佐賀の乱、1876年(明治9)神風連(敬神党)の乱・秋月の乱・萩の乱は、政府の新政に不満をもつ士族の反乱でしたが、いずれも政府によって速やかに鎮圧されました。

こうした動きは、国内には少なからず動揺を与え、それが1877年(明治10)2月に起こった西南戦争につながって行くのでした。

 

さて、この萩の乱ですが、冒頭にも書きましたように1876年(明治9)に山口県萩で起こった士族の反乱です。旧長州藩の士族332名が前原一誠を首領に仰ぎ、新政府打倒を叫んで蜂起しました。

この前原は、実は1869年(明治2)に政府参議となり、大村益次郎の跡を継いで兵部大輔となりましたが、政府部内で議が合わず、特に1870年(明治3)に起こった長州奇兵隊反乱の処分問題で厳罰を主張する木戸孝允と対立し、同年に辞職して帰国していました。

帰国後、前原は隠棲していましたが1874年(明治7)に佐賀の乱が起こったとき、県令の要請を受けて反乱軍の長州侵入を防ぐための義兵を募ったそうです。その数は何と3,000余名にも達したと言われています。

 

しかし、この前原一誠は、実は保守的思想の持ち主で、「王土王民」の立場から政府が進めつつある地租改正や士族の解体政策に反対を唱え、また国権拡張のための征韓論を主張していました。彼のもとに集まった人々も、前原のこうした考え方に賛同していた人であると考えられています。

木戸孝允は、前原の挙動に不安をいだき、1875年(明治8)の夏、前原に元老院議官への就任を勧めましたが拒否されているんですね。

そこで、木戸はスパイ(密偵)を送り込んで前原の動きを調べさせています。1875年(明治8)11月、密偵の三浦芳介はその動向を次のように報告しています。

前原連中、大会とか大集会とか致候の事、当節は壮士計には無之、玉木翁、寺内翁、長屋藤一、其他白髪老人が大奮発にて、士気を奮はせねばならぬとか、征韓とか不平とか之事にて…(中略)…他直人杯は出入致候様子

木戸は、前原のこのような挙動を知り、同年9月4日の日記に次のように書いています。

一身上の不平より良民を迷乱する。実に男子の所恥為…(中略)…於法不所免は如何とも難致考居し処

 

1876年(明治9)10月の神風連の蜂起を知った前原は、同月26日、萩の明倫館で佐世一世・横山俊彦・奥平謙輔ら同志150名とともに28日を期して挙兵する事を決しました。

こうして1876年(明治9)のこの日、この萩の明倫館で前原一誠は挙兵、官金を奪い檄を飛ばして周辺士族に決起を促しました。そして山口県庁の襲撃に向けて出発しようとしたのですが、政府軍の動きも早く、広島鎮台山口屯営兵約400名をはじめとして大阪鎮台歩兵一大隊と砲兵一小隊まで出動して鎮圧に向かったため、反乱軍は萩周辺を出ることが出来ませんでした。

 

挙兵は失敗に終わり、さらに山陽道から船で脱出を図りましたが、これも失敗。萩に戻って広島鎮台司令長官三浦梧楼が率いる鎮台兵と戦い敗走。

同年11月5日に島根県宇滝港で敗走した者たちは捕らえられ、のち、前原ら幹部8名が斬刑と相成りました。

この萩の乱の絵が残されており、Wikipediaにあったので無断借用してきました。画像またはその下の青文字をクリックするとWikipediaの大きな画像が見られますよ。

<萩一戦録(萩の乱の錦絵>
(Wikipedia「萩の乱」から無断借用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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