10月30日 <潜伏中の高野長英、自害 (1850年=嘉永3)>

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167年前のこの日、蛮社の獄で捕えられたものの、伝馬町牢屋敷の火災の際に脱獄し、市中に潜伏していた高野長英が幕吏に襲われ自ら命を絶ちました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

高野長英は、江戸時代後期の蘭学者・医者です。

1804年(文化元)に陸奥国水沢に生まれ、仙台藩水沢領主留守氏の侍医高野玄蕃の養子です。医者の家に養子に入って本人も医者になったんですねぇ。

 

1820年(文政3)、江戸で杉田伯元、吉田長淑(よしだちょうしゅく)に蘭学を学び、1825年(文政8)には長崎に赴きシーボルトに師事しています。1828年(文政11)のシーボルト事件が起こった後に姿を隠しますが、1830年(天保元)江戸の麹町で医院を開業します。

1832年(天保3)に日本初の生理学書「医原枢要(いげんすうよう)」を著し、医者としての実績をどんどん積みますが、その一方で同年、渡辺崋山を知り、それ以降崋山主宰の西洋事情研究会の主要メンバーとなり、「二物考」「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」を著します。

 

この「戊戌夢物語」は、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の政策を厳しく非難する内容だったので、目付であった鳥居耀蔵(とりいようぞう)に目を付けられ、1839年(天保10)渡辺崋山・高野長英らは無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していた…とでっち上げの罪で逮捕されてしまったのです。

渡辺崋山は国元での永蟄居(えいちっきょ)、高野長英は永牢(えいろう)に処されてしまいました。これは「蛮社の獄」と呼ばれる政治疑獄事件です。

 

牢にぶち込まれてしまった長英でしたが、1844年(弘化元)に伝馬町牢屋敷火災に乗じて脱獄し、宇和島・鹿児島など全国を逃亡しつつ「三兵答古知幾(さんぺいたくちき)」などの蘭書翻訳を行ったりしています。めげない男です。

 

そして1849年(嘉永2)、みずから硝石で顔を焼いて面相を変え江戸に潜入し、青山百人町に居を構えて、沢三伯(さわさんぱく)と名乗って町医者となり、そのかたわら多くの兵書を翻訳していました。

 

ところが、翌1850年(嘉永3)のこの日、幕吏が突然襲ってきたのです。

長英は、短刀で捕吏に斬りつけ、返す刀で自らの喉を突いたのです。

瀕死の長英は、町奉行所に運ばれましたが、まもなく世を去りました。享年47歳でした。

 

 

ペリーが黒船で浦賀沖にやってくるのが1853年(嘉永6)のこと、夜明け前の日本のワンシーンでした。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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