10月7日 <上方の豊後節が、江戸で上演禁止となる(1739年=元文4)>

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1739年(元文4)のこの日、江戸で豊後節浄瑠璃の上演が全面禁止となりました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

豊後節とは、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が創始した浄瑠璃です。京都の初世都太夫一中(いっちゅう)の門弟であった都国太夫半中は、1734年(亨保19)宮古路豊後掾を名乗って江戸に進出して、一世を風靡したのでした。豊後掾は最初は、師事した都太夫一中から一中節を学んでいましたが、のちに独自の芸風を生み出し一派をなしました。特に歌舞伎に適合した音曲であったため、時流にあって大流行したのです。

 

豊後掾は改名するたびに、その曲節の名称も変えています。都国太夫半中と名乗ってた1715年(亨保元)ころは半中節として知られ、1722年(亨保7)に宮古路国太夫半中と改め独立したころは国太夫節と称されました。1730年(亨保15)頃に宮古路豊後となり、江戸に下りました。当時の江戸は享保の改革という質素・倹約をモットーとした改革が行われていたこともあり、豊後掾は華美な風潮を残していた名古屋に本拠を移します。1734年(亨保19)には、その名古屋で心中を題材に脚色した「睦月連理玉椿(むつまじきれんりのたまつばき)」がヒットし、再び江戸に進出し大流行して豊後節という名が定着しました。豊後掾という改名したのも、この江戸に再進出した1734年のことでした。その演目は、主に心中道行物を哀切を極めた語り口で演じたため、煽情的であるとして幕府からは厳しい態度で接せられました。事実、その風俗が一般の人々に流行し、その影響でカップルが心中してしまう出来事も増えたそうです。

 

そうした背景もあり、1736年(元文元)ころから始まった幕府の豊後節への締め付けは徐々に強まり、1739年(元文4)9月には江戸における豊後節浄瑠璃の芝居は全面禁止が宣言され、同年の今日、この日に江戸の町年寄から正式に上演禁止の通達が発せられました。

 

豊後掾は失意のうちに京都へ戻り、翌1740年(元文5)9月に世を去っています。

 

豊後掾は江戸を去りましたが、その高弟らは改姓独立して江戸に残り新しい流派を作っていきました。そのうち常磐津節・富本節・清元節を豊後三流といいますが、これらは歌舞伎と結びついて発展し、江戸に昔からあった浄瑠璃を駆逐しました。しかし、その豊後三流よりさらに豊後節の面影を色濃く残しているのが歌舞伎から離れ遊郭と結びついた新内節だそうです。そして、これらの芸は現代までも脈々と続いており、人々を楽しませています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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