11月11日 <「申楽談儀」が成立(1430年=永享2)>

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1430年(永享2)のこの日、「世子六十以後申楽談儀(ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ)」が成立しました。能楽の大成者として著名な世阿弥(ぜあみ)が語った能の歴史や名人の芸風・逸話、能の演出など広範な内容の談話を、次男の元能(もとよし)が筆録したものです。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この「世子六十以後申楽談儀」を著したのは、世阿弥の次男元能ですが、本題に入る前に、その祖父である観阿弥と親である世阿弥とが一世を風靡した室町時代の能についてサラリと触れておきましょう。

 

室町時代に能楽師は、寺社の保護を受けて座を結成し、能を演じる専門的な芸術集団を形成していきました。

興福寺を本所とする観世座(結崎座)・宝生座(外山座)・金春座(円満井座)・金剛座(坂戸座)の、いわゆる大和猿楽四座(やまとさるがくしざ)はその代表的なものでした。

その一つ観世座(かんぜざ)に出た観阿弥(かんあみ。清次)・世阿弥(ぜあみ。元清)父子は、将軍義満・義持らの保護を受け、近江猿楽や田楽能などほかの芸能集団と競いながら洗練された芸の美を追究し、芸術性の高い猿楽能を完成しました。

以後、観世座が演じる能を観世能、観世座の座長を観世大夫(かんぜだゆう)と呼びました。こうして観世座が隆盛を迎えた一方、近江猿楽や田楽能はしだいに衰退し、以後、能といえばほぼ観世能を中心とする大和猿楽の猿楽能のみを指すようになりました。世阿弥は足利義教のとき、不興をかって佐渡に流されましたが、観阿弥・世阿弥父子は、「砧(きぬた)」「井筒」など、能の脚本である謡曲(ようきょく)を数多く書くとともに、世阿弥は能の神髄を述べた「風姿花伝(ふうしかでん。花伝書)」や「花鏡(かきょう)」 などの理論書を残し、能の大成者となりました。

 

上に出てきた猿楽と田楽とは少し異なる芸能です。

猿楽は滑稽なしぐさや物まねから始まった芸能で、古代に唐から伝わった散楽(さんがく)が語源とされています。猿楽能の直接の起源とみられているものの一つに呪師猿楽(じゅしさるがく)と呼ばれるものがあります。これは寺院での法会(ほうえ)の際に、猿楽師が鬼の面などをつけて悪魔払いを行ったもので、そこで用いられた面がのちの能面の原型となったと考えられています。

一方、田楽はびんざさらや腰鼓(こしつづみ)などの楽器を用いた群舞から始まった芸能です。

いずれも、曲芸や演劇などさまざまな要素を取り入れながら発達し、やがてそのなかから演劇のかたちをとる猿楽能・田楽能が流行するようになったのでした。

 

 

本日の記事の、「申楽談儀」の正式名称は「世子六十以後申楽談儀」で、一言で申せば能の伝書です。

世阿弥晩年の芸談を1430年(永享2)11月に、次男の元能(もとよし)が出家するに際し整理した書です。唯一の完本だった堀家本は既に焼失しています。

序説と本論31条、結崎座座規、補遺という構成で、その内容は、猿楽・田楽史、役者の芸風や逸話、能面・装束、勧進能や式三番の故実、作能法や作者、音曲や演技に関する具体論など多彩な内容で、当時の能楽の実態を知る根本史料で、具体的な芸論の記述も多く含まれています。

元能自身の見聞も加っているので、厳密には世阿弥伝書ではありませんが、能楽伝書としての価値は高く評価されています。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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