11月11日 <大槻玄沢、オランダ正月の祝宴を催す(1794年=寛政6)>

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1794年(寛政6)のこの日、当時の蘭学者の指導的地位にあった大槻玄沢(おおつきげんたく)は江戸の京橋水谷町(現:東京都中央区銀座一丁目)にあった自宅の塾芝蘭堂(しらんどう)に多くの蘭学者・蘭学愛好家を招いて元旦の祝宴を催しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1794年(寛政6)のこの日、当時の蘭学者の指導的地位にあった大槻玄沢は江戸の京橋水谷町(現:東京都中央区銀座一丁目)にあった自宅の塾芝蘭堂に多くの蘭学者・蘭学愛好家を招いて元旦の祝宴を催しました。この日は西暦1795年1月1日、すなわち太陽暦の元旦だったのです。

 

長崎出島のオランダ商館では、在留オランダ人が故国の生活様式と慣習とを守って暮らしていたので、太陽暦の元旦を迎えて祝宴を開いていたのを、長崎の人たちは阿蘭陀正月(おらんだしょうがつ)と呼びました。これが転じて、江戸の蘭学者がこれを模倣して太陽暦の元旦を祝った祝宴もまた阿蘭陀正月と呼んでいました。出島の阿蘭陀正月の起源は1683年(天和3)1月1日が最初でした。この祝宴には奉行所の役人・出島乙名・通詞など関係が深い日本人が招待されたところから、その様子が日本人にも知られるようになっていたのです。奉行所とは、11月9日に一部ご説明した江戸幕府の職制の一つで、要地(伏見・長崎・奈良・山田・日光・堺・下田・浦賀・新潟・佐渡・箱館)には老中管轄の職制として遠国奉行(おんごくぶぎょう)が置かれていたのです。

 

大槻玄沢が催したこの阿蘭陀正月は、新暦の元日を祝うことから「新元会」ともいわれ、玄沢の死後も続き、その子の大槻玄幹(おおつきげんかん)が亡くなる1837年(天保8)まで44回も続けられたそうです。

 

この新元会が、出島での阿蘭陀正月を伝聞で得た大槻玄沢の知識に端を発すると思われます。この祝宴では、卓上にはナイフ・フォーク・スプーンなどが置かれ、盃は当然ギヤマン。酒はオランダ渡来のワイン風のものであったそうです。じつは、オランダはその気候的、地理的な条件でワイン栽培が難しく、近代的なワイン生産が始まったのも1970年代のことなんです。丁度、江戸時代はオランダではワイン生産が衰退していた時期だそうです。従いまして、新元会で何を飲んでいたか?はもう少し調べる必要がありますね。

 

この会では、もともとは好奇の舶来趣味から端を発していたのでしょうが、、新来の学問としての蘭学を学ぶ者として日本古来の伝統に囚われずにこうした日を選び、そうした西洋料理や正洋酒をかこみながら、大いに気勢を上げ、新しい蘭学という学問の大成を祝い、願う気持ちが込められていたことと思われます。

 

画像を四枚貼付します。早稲田大学図書館所蔵の「芝蘭堂新元会図」で、当日の祝宴の様子を描いたものです。

詳細はこちらのリンク先でご確認下さい。→http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_a0224/

 

早稲田大学図書館所蔵「芝蘭堂新元会図」

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(早稲田大学のサイトから転用の画像です)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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