11月11日 <黒住宗忠、黒住教を開く(1814年=文化11)>

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1814年(文化11)のこの日、備前国御野郡上中野村(現・岡山市)の今村宮神官黒住宗忠(くろずみむねただ)は、朝日を拝した際に、日光が体内に入り、日神との合一感を得ました。宗忠は、この体感が天命が授けられた証と確信し、布教活動に乗り出しました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代に、幕末の三大新興宗教、のちに教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれる民衆宗教がありました。1814年(文化11)に黒住宗忠が備前に開いた黒住教、1838年(天保9)に中山みきが大和で始めた天理教、1859年(安政6)に川手文次郎(かわてぶんじろう)が始めた金光教がこの三大新興宗教です。

これらの民衆宗教は、伊勢神宮への御蔭参りの流行とともに、時代の転換期を迎え、行き詰まった世相や苦しい生活から救済されたいという民衆の願いによって、急速に広まっていったのでした。

今回の記事は、黒住教に関するものです。

 

1814年(文化11)の冬至のこの日の朝、備前国御野郡上中野村(現・岡山市)の今村宮神官黒住宗忠(くろずみむねただ)は、朝日を拝した際に、日光が体内に入り、日神との合一感を得ました。このことを、太陽を呑み込んで神と合一する「天命直授」といいます。宗忠は、この体感が天命が授けられた証と確信し、教祖となって黒住教の布教活動に乗り出し、信者集団を形成しました。

その翌年の1815年(文化12)から禁厭祈祷と講釈とを中心とする布教活動を開始しました。宗忠の講釈は「浮かびのままの説教」といい、準備は行わず心に浮かんだことを話しました。

1846年(弘化3)「御定書」が作成されて信仰の心得が示され、1850年(嘉永3)の宗忠没後も6高弟を中心に中国・京阪地方で布教を行い、公家や勤王の志士なども信者に加わりました。

宗忠の著作は残されていませんが、「日々家内心得の事(教祖訓戒7箇条とも)」・教祖の「歌集」「文集」が教典とされています。

 

余談ですが、先代教主の黒住宗晴は、あの日本会議の代表委員でもあるのですよ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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