11月12日 <平徳子が安徳天皇を出産(1178年=治承2)>

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1178年(治承2)のこの日、高倉天皇の中宮で平清盛の娘徳子がのちの安徳天皇となる皇子を出産しました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平徳子(たいらのとくこ)は、1155年(久寿2)に生まれた平清盛(たいらのきよもり)の次女です。母親は平時子(たいらのときこ)です。

平清盛は院近臣の立場を利用して娘の徳子を入内(じゅだい)させました。

  • 1171年(承安元)12月 後白河法皇の猶子(ゆうし:兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶこと)となり、入内し高倉天皇の女御(にょうご:天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍し、位は皇后ー中宮ー女御)となります。
  • 1172年(承安2)2月  高倉天皇の中宮に立てられました。

平清盛は皇子の誕生を期待しました。しかし、高倉天皇がお生まれになったのは1161年(応保元)9月だったので、平時子を中宮として迎え入れた時はまだ数え年で10歳の時でした。そうです、高倉天皇は現在で言う小学5年生にあたる年少者で、しかも身体が弱かったこともあり、なかなか皇子は誕生しませんでした。その状態にじれた清盛は、一時は皇子誕生を諦め、後白河法皇が遊女に産ませた皇子を内裏に引き取って養子とし、やがてこれを東宮としようとさえしました。

 

清盛はそれでも徳子が皇子を生むのを諦めませんでした。「愚管抄」によると、皇子誕生祈願のために安芸の厳島神社に月詣をしたほどでした。そうして遂に、1178年(治承2)のこの日、安徳天皇となる皇子が生まれました。待ちに待った…という感じで清盛の喜びは例えようもないほど大きかったに違いありません。

 

その喜びの大きさを表すエピソードがあるので、以下にご紹介します。

1179年(治承3)12月、生まれた皇子は東宮となりました。満1歳となった東宮はその年(1179年)の12月16日に、外祖父である清盛の私邸を訪問します。その際の様子は東宮に扈従(こしょう:貴人のお供をすること)した春宮権太夫中山忠親(なかやまのただちか)の日記「山槐記(さんかいき)」に次のように記されています。

「一日中禅門(清盛のこと)は東宮を抱いて放さなかった。東宮はおじいさんに抱かれて少しも嫌がられず、御指につばをつけて明障子(あかりしょうじ)に穴を開けられた禅門が教えると、教えたとおりまた穴を開けられた。禅門ははらはらと涙を流し、この障子を倉の奥に大切にしまっておけと命じた。」

 

その幸せな様子が目に浮かぶような話だと思います。

 

1180年(治承4)には清盛は孫を安徳天皇として即位させます。母親である徳子は、1181年(養和元)に建礼門院という院号を宣下されます。そうした間にも源氏が蜂起し治承・寿永の内乱と呼ばれるいわゆる源平の争乱が勃発します。1183年(寿永2)7月、平氏一門は安徳天皇と女院を伴って都を落ち、1185年(文治元)3月、長門国壇ノ浦の戦で平氏は滅亡します。建礼門院は安徳天皇とともに入水しますが、女院のみ源氏の軍勢に救助されて京都に送還されます。

 

同年(1185年)5月、建礼門院は京都東山の長楽寺で出家します。法名は真如覚でした。その後、京都北郊大原の寂光院に移り、高倉・安徳両天皇の冥福を祈る日々だったそうです。崩御なさったのは1213年(建保元)12月、59歳の生涯でした。その大原の閑居を後白河法皇が訪れられたこともあるようで、その事は平家物語のなかで大原御行として描かれており、また世阿弥が作った謡曲「大原御幸」にも残されています。

 

政権が大きく移り変わるその荒波のなかで翻弄された平徳子は、そうした時代の被害者だったのかもしれません。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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