11月15日 <保守合同し、自由民主党が発足(1955年=昭和30)>

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1954年(昭和29)のこの日、改進党、自由党の鳩山派と岸派、日本自由党の3者が合同し、総裁を鳩山一郎、幹事長を岸信介(きしのぶすけ)として日本民主党が結成されました。

これ日昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1954年(昭和29)のこの日、改進党、自由党の鳩山派と岸派、日本自由党の3者が合同し、総裁を鳩山一郎、幹事長を岸信介(きしのぶすけ)として日本民主党が結成されました。同年12月、日本民主党と左右社会党とが共同して内閣不信任案を提出したため、吉田内閣は総辞職しました。

 

1954年(昭和29)12月、日本民主党の鳩山一郎が、国会解散を条件に左右社会党の支持を取り付けて組閣しました。鳩山内閣は戦前期に政党政治家であった者を閣僚に多数登用した点で、官僚出身者を登用することの多かった吉田内閣とは好対照をなしていたといえます。鳩山は吉田路線との差異を出すために、中国・ソ連との国交回復、再軍備を意図する憲法改正の方針を打ち出しました。

 

1955年(昭和30)2月に行われた総選挙では、日本民主党は第一党よなり第2次鳩山内閣が組閣されましたが、獲得議員数が過半数を割っていました。また左派社会党が躍進したこともあり、仮に日本民主党と自由党とが憲法改正に賛成しても、その発議に必要な3分の2の議席数を保守勢力だけでまかなうことが出来ませんでした。

 

一方の大勢力社会党は、講話問題が契機となって長年左派と右派とに分裂していましたが、2者が合同すれば改憲阻止勢力として、政権を取ることも可能であると考え、1955年10月13日に社会党を再統一しました。これによって衆議院の議員定数467人にうち、社会党は156議席を占める勢力となり、委員長には左派の鈴木茂三郎(すずきもさぶろう)が、書記長には右派の浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)が就任し、改憲反対を党のスローガンとして掲げました。

 

これに対して、保守系政党は、社会党の再統一をみた財界が保守勢力の分裂状況に再考を促す強い圧力を掛けたこともあり、保守勢力を結集するための下準備が進められました。その結果、保守合同により党名を自由民主党とし1955年の今日、結党式が行われて、衆議院に299人、参議院に118名を占める超大勢力がここに誕生し、その後の自由民主党の長期政権が始まりました。自由民主党は第3次鳩山内閣を成立させ、鳩山は自主憲法の制定(憲法改正)と再軍備(防衛力の増強)とをスローガンとして掲げましたが、1956年(昭和31)に憲法調査会法を公布し、国防会議を発足させたにとどまったのでした・

 

こうして、保守勢力が議席の3分の2を、革新勢力が3分の1を分け合う体制となりました。このような安定的体制を55年体制と呼んでいます。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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