11月19日 <源義仲、法住寺殿を襲撃しクーデター決行(1183年=寿永2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

源頼朝の従弟(いとこ)である源義仲(みなもとのよしなか)は、頼朝より1ヶ月ほど後に信濃国で挙兵しました。義仲は、木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られていて、「平家物語」では朝日将軍(あさひしょうぐん)・旭将軍と書かれています。

 

義仲は、徐々に近隣の武士を従え、1181年(養和元)6月、平氏の命を受けた越後の豪族城氏(じょうし)を撃退し北陸道に進出しました。木曽から越後に抜け、北陸道沿いに上京するルートを取ったのです。北陸道の諸国には反平氏の気運が高まっており、義仲の勢力は急激に大きくなっていきました。1183年(寿永2)5月、平氏は平維盛(たいらのこれもり)を大将として10万の軍勢を北陸に派遣しましたが、越中にいた義仲は加賀と越中の国境礪波山(となみやま)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)でこれを迎え討ち、撃破しました。この戦いは、牛の角にたいまつを結んで夜襲をかけた…と伝えられる一戦でした。義仲は敗走する平氏軍を追って加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都に攻め上がって行きました。

 

平氏はついに天皇および法皇を奉じて西国に向かおうとしました。ところが、法皇は気配を察していち早く比叡山に身を隠したので、やむを得ず安徳天皇および建礼門院(平徳子)を擁し、六波羅にある平氏一門の邸宅に火を放って一族をあげて西へと向かいました。栄華を誇った平氏も遂に都落ちしたのです。1183年(寿永2)7月25日のことでした。

 

京都に入った義仲軍でしたが、1181年(養和元)の畿内・西国の大飢饉(養和の飢饉)の影響でたちまち兵糧不足で苦しむことになります。そこで、義仲軍は京都の中で略奪三昧の強盗と化してしまったのです。義仲はこうした状況に手を打たず、それどころか武力を背景に後白河法皇の政治に口出しをする有様でした。そこで、法皇は平氏追討を口実に義仲を京都から遠ざけ、その間に頼朝の上京を促したのでした。

 

西国に平氏を追って攻め下った義仲軍でしたが、既に軍紀もゆるみ、さらに糧食も乏しかったこともあり、備中水島で平家の反撃にあい敗北し京都に逃げ帰ってしまいました。ところが、京都では義仲の不在中に法皇は頼朝と手を結び義仲を討つ策を練っていたのです。義仲の背後には、水島の合戦で勝利して気勢を上げた平氏が、京都回復お狙って東上しようとしていました。義仲は法皇を奉じて北陸へ向かおうとしますが、法皇は拒絶し、それどころか京都退去を命ぜられてしまいます。

 

進退に窮した義仲は、遂に逆ギレして、最後の手段として、1183年(寿永2)の今日、クーデターを決行しました。法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)を焼き討ちして法皇を幽閉したのです。義仲の攻撃ははげしく、院方では武士630余人が命を落としたそうです。そのなかには園城寺長吏(座主)円恵法親王や天台座主明雲(めいうん)などの重要な僧職者も含まれていました。そうして、政治の実権を握り、翌年1月8日には征夷大将軍を拝することになった義仲でしたが、同1月20日には頼朝の差し向けた義経のために近江の粟津(現・滋賀県大津市)で亡くなってしまいます。

 

折角、平氏を都落ちさせた義仲でしたが、政治的配慮不足ゆえに法皇の反感を買ってしまい、孤立したのですね。周りをみて行う配慮はいつの世も大切なものなんですねぇ。

 

今日はここまでです。

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