11月24日 <警視庁が、エロ演芸規則(警視庁令)を通牒(1930年=昭和5)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1923年(大正12)9月に起きた関東大震災では、首都圏は大打撃を受けましたが、それから数年が経った1930年(昭和5)頃には、東京もその痛手から立ち直ったといえるほど復興していました。

 

当時のエンターテインメント文化には流行していたものがありました。それは「エロ・グロ・ナンセンス」といったもので、特にエロチシズムを前面に出した演芸・興行が大流行していました。キャバレーやカフェーなどの風俗産業も、とにかくエロ一本槍といった様相でした。特に、1929年(昭和4)に浅草水族館二階でオープンしたカジノ・フォーリーは、日本最初のレヴュー劇団を標榜しており当初は閑古鳥が鳴いていたそうですが、その頃、川端康成が朝日新聞の夕刊に連載した「浅草紅團」に取り上げたこともあり、大きな注目を集めていました。

 

以下に、その川端康成の文をご紹介申し上げます。

… まるで浅草懐古の記念物のように、公園第四区に取り残された昆虫館と水族館 ── その水族館の魚が泳ぐ前を通り、竜宮城の模型の横から、カジノ・フォウリイの踊子達が、楽屋入りをするようになったのだ。パリイ帰りの藤田嗣治画伯が、パリジェンヌのユキ子夫人を連れて、そのレヴュウを見物に来るのだ。
「和洋ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、束京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズーソングと。女の足と ── 。…」

(川端康成「東京紅團」から引用)

 

 

ところが、そうしたエロを売り物とした風俗に、警察も極めて厳格に対処しました。1930年(昭和5)の今日、以下の様な条文の「エロ取締規則」を作成、管内各署に通牒したのです。そうして取締は一気に全国区へと発展していきました。

 

一、レヴュー、ナンセンス、キャバレー、ヴァラエテ等名称の如何を問はず、演劇の形式をとり台詞叉は歌を用ふるものは、規則の演劇興行に相当するものなるを以て、凡て警視庁の認可を受けたる脚本を提出するに非ざれぼ興行を認可せざること

 

二、演劇演芸興行における所作、服装照明等について は左の各号により厳重取締に当ること

(イ)ヅロースは股下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずること

(ロ)背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざること

(ハ)胸腹部は乳房以下の部分を露出せしめざること

(ニ)静物と称し全身に肉襦袢を着し、裸体の曲線美を表すものは、腰部をスカートその他これに類するものを以て覆はしむること

(ホ)片方の脚のみ股まで肉体を露出するが如きものはこれを禁ずること

(へ)照明を以て腰部の着衣を肉色に反射せしむることはこれを禁ずること

(ト)ダンス(例へばインデアンダンス、ハワイアンダンス等)にして腰を部分的に前後左右に振る所作はこれを禁ずること

(チ)観客に向い脚を挙げ股が継続的に観客に見ゆる如き所作はこれを禁ずること

(リ)日本服の踊りにおいて大腿を観客に顕はすが如き所作はこれを禁ずること

(ヌ)前各項に抵触せざるも著しく性的劣情を挑発するが如き所作、服装をなし又は必要以上に残酷なる所作をなすものを発見したる時は保安部の指揮を受け相当処置を取ること

 

この規則に基づき、取締も実際に行われた記録が残っており、流行して浮かれていた風俗業界も冷水を浴びせられた状態だったそうです。

 

今日はここまでです。

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