11月30日 <山田寺跡から建築部材が出土(1982年=昭和57)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1982年(昭和57)の今日、奈良県桜井市山田」にある飛鳥時代を代表する寺院であった山田寺跡から回廊の一部が出土し、それが発表されました。

 

山田寺は、浄土寺・華厳寺とも呼ばれ、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)によって641年(舒明13)に創建されました。

 

この蘇我倉山田石川麻呂は、あの大化の改新の際にはとても重要な役割を担っていたのです。644年(皇極3)に娘の遠智娘(おちのいらつめ)を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の妃に入れて、皇室にお近づきになりました。そして645年(皇極4)6月に中大兄皇子が中臣鎌足(なかとみのかまたり)とが飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿(そがのいるか)を謀殺した際に、蘇我倉山田石川麻呂が、三朝進調の表文を大極殿で読み上げ、その間に蘇我入鹿が襲われたのでした。Wikipediaにはその時の事が次の様に書かれています。

 

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の偏)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。蘇我入鹿暗殺後、脱出した古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣」)の韓人は、先祖にその名を持つ、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。

(Wikipedia「蘇我倉山田石川麻呂」の項より引用)

 

蘇我倉山田石川麻呂は、改新政府では右大臣に任命されましたが、649年(大化5)中大兄皇子を害するとの讒言にあい、孝徳天皇が派遣した兵を受け、山田寺で妻子ともども自ら命を断ちました。これは、中大兄皇子と中臣鎌足との共謀によるものとされる説もあり、その後冤罪であったことが判明したそうです。

 

山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂が亡くなったあと、一時建造が中断されました。それは天智天皇の御代に再開され、685年(天武14)に講堂の本尊が完成したそうです。1187年(文治3)には、講堂の本尊が興福寺に奪われ(現在は頭部のみが興福寺にあります)、その後まもなく伽藍は荒廃したと考えられています。

 

山田寺跡は1975(昭和50)に国有地化され、以後本格的な発掘調査が実施されています。その調査によって、飛鳥時代の建築について知る事が出来る貴重な発見がありあした。

 

1982年(昭和57)、続けられていた発掘調査で、塔の東側において、東回廊が西側に倒壊したままの状態で発見されました。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱や連子窓(れんじまど)をはじめ、束(つか)、腰長押(こしなげし)、小脇壁(こわきかべ)、頭貫(かしらぬき)、斗栱間小壁(ときょうまこかべ)、巻斗(まきと)が、7世紀に建てられた姿そのままで基壇上に横倒しになっていたのでした。そこには赤色顔料や上塗りの白土までもが残っており、当時の色彩さえも伺う事が出来る大発見でした。

 

柱や連子子(れんじし)などの部材、特にその柱ときたら、直径32cmもあるエンタシスの形状を持ったもので、法隆寺の歩廊などに比べると太く、重厚な作りです。現在の定説では、法隆寺は再建されたものであることが確実になっており、この山田寺の東回廊は、現存する最古の建築物であり、日本建築史研究上、重要な資料であるといえましょう。

 

出土した東回廊は、ポリエチレングリコールによる科学的保存処置を施し、うち3間分が復原された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館において展示・公開されています。

 

今日はここまでです。

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