1849年(嘉永2)のこの日、緒方洪庵は大坂古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開設し、牛痘種痘法による切痘を始めました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
緒方洪庵といえば、受験日本史においては大坂で私塾適塾を作った…ということで取り上げられる人物ですが、今回の記事はその洪庵の日本の近代医学の祖としての側面のことです。
その前に…私塾の話を少しだけ。
化政期から天保期に、様々な分野の学者たちにより私塾が各地に作られました。
- 儒学者広瀬淡窓(ひろせたんそう)が豊後日田に開いた咸宜園(かんぎえん)
- 蘭学者緒方洪庵が大坂に開いた適々斎塾(てきてきさいじゅく。適塾のこと)
- 吉田松陰の叔父が長門萩に設立し、のちに松蔭が受け継いだ松下村塾(しょうかそんじゅく)
- オランダ商館の医師シーボルトが長崎郊外に開いた鳴滝塾(なるたきじゅく)
などはその代表格です。これらの私塾は全国から多くの塾生を集め、幕末から明治初期に活躍する多くの優れた人材を輩出しました。
緒方洪庵の適塾からも、福澤諭吉・大鳥圭介・橋本左内・大村益次郎・長与専斎・佐野常民・高松凌雲などがその後活躍しています。
この緒方洪庵、備中国足守藩士佐伯惟因の三男として生まれましたが、虚弱体質であったため医師を目指したそうです。
1825年(文政8)、父と大坂に出て、翌1826年(文政9)7月、蘭学者中天游の私塾「思々斎塾」に入門しました。この時に緒方三平と改称し、それ以後は緒方姓を名乗って居ます。
その後、1831年(天保2)江戸の坪井信道塾に入り、信道の師でハルマ和解の翻訳で名高い宇田川玄真にも学び、蘭書翻訳の能力を磨きました。
さらに、1836年(天保7)、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵を名乗っています。
1838年(天保9)、大坂に適々斎塾を開き、医業とともに蘭学教育に専心し、近代日本の建設に寄与した多くの人材を育成したのでした。
1849年(嘉永2)11月初旬、天然痘治療のため佐賀藩が輸入した種痘を得て、同年のこの日、大坂古手町(現・大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開設し、牛痘種痘法による切痘を始めました。
この牛痘種痘法、
<牛になる>
といった迷信にために大変な苦労がありましたが、洪庵は治療費を取らず患者に実験台になってもらうなどして普及につとめました。
Wikipediaに緒方洪庵の肖像画があったので、無断で拝借してきました。画像またはその下の青文字をクリックして頂きますとWikipediaの大きな画像が見られますよ。
<緒方洪庵肖像>
(Wikipedia「緒方洪庵」から無断借用)
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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