11月8日 <後水尾天皇退位(1629年=寛永6)>

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1629年(寛永6)のこの日、後水尾天皇は江戸幕府の同意を求めずに突然、譲位を宣言しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

後水尾天皇は鬱々とした日々を送っていました。

というのも、1629年(寛永6)7月に紫衣事件が起こっていたのに加え、腫れ物にも悩まされていたからです。おまけに同年5月に表明した譲位の意向に対しての幕府の返答も先延ばしにされていました。

 

本日の記事に入っていく前に、この紫衣事件について少し触れておきましょう。

遡ること2年ほどのこと、1627年(寛永4)、江戸幕府は以下の案件についてクレームを申し立てました。

大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度や禁中並公家諸法度に反して、みだりになっている

大徳寺沢庵・玉室や妙心寺単伝が、このクレームに対して抗議しつづけたので、1629年(寛永6)7月、幕府は沢庵らを出羽国などに配流し、1615年(元和元)以来幕府の許可なく勅許された紫衣を剥奪したのでした。この一連の動きが紫衣事件と呼ばれる出来事です。

 

後水尾天皇はこの動きに嫌気が差していたこともあり、1629年(寛永6)5月7日、武家伝奏を江戸に派遣して幕府に譲位の意思を伝えました。その譲位の趣旨は2つありました。

  1. 数年来病んでいた腫れ物の治療に灸を用いたいが、灸治は天皇在位中は行えないため譲位したい。
  2. 譲位したあとは正妻に迎えた徳川秀忠の娘和子が生んだ娘一宮興子内親王が即位する。

この女性天皇であることは天皇側も躊躇があったらしく、「女帝の儀くるしかるまじき」と記されていました。

この第1項の灸治についてはWikipediaに詳しく書いてあるので以下に引用します。

一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために譲位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている(かつての皇国史観のもと、辻善之助の研究に代表される「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗」という通説への対論となる洞富雄の説)。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった。

(Wikipedia「後水尾天皇」から引用)

ところが、この譲位の要望については幕府に断られてしまったのです。大御所の秀忠の結論は、女性天皇誕生には同意するものの、6歳の孫娘ではいかにも時期尚早である…ということでした。

 

 

こうした状況下において、最初にも書きましたが後水尾天皇は鬱々とした日々を送っていました。

そして1629年(寛永6)のこの日、天皇は意を決して幕府の同意を求めずに譲位を宣言しました。跡は和子の女一宮がわずか7歳で明正天皇として即位しました。武家伝奏の一人であった腹心の中院通村(なかのいんみちむら)を除いて公家たちには知らされていなかったため、この異例の事態にはビックリです。

京都所司代板倉重宗(いたくらしげむね)は直ちに参内して「突然の譲位は言語道断のことである。大御所秀忠と将軍家光に連絡して、その返事があるまで穏便にしているように」と命じました。

この突然の譲位の宣言に対し、同年の12月27日、やっと江戸城の徳川秀忠・家光からの返答が京都に届き、それには「御譲位之由には驚いたことであった。こうなったうえは叡慮次第」と天皇の意に沿うことが言明され、譲位が承認されたのでした。

即位にあたって、幕府はミッションを果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じました。この後水尾天皇の譲位に関しては京都所司代板倉重宗と中院通村との間にあったやり取りがWikipediaに記されていたので、これも引用しておきますね。

後水尾天皇の譲位を幕府に報告しなかった理由について、京都所司代の板倉重宗から問われた通村は「洩らすな」との勅命があったことを告白。これに対し重宗は「内々に知らせるべきであった」としたが、通村は「勅命に背いて君臣仁義を破り、人に内応する者がありましょうか。もしそなたが、関東から都の人に知らせるなと聞かれましたら、そなたも洩らしはなさるまい。我らは天子の臣でござる。関東の臣ではござらぬ」と答えた。これには重宗も言葉がなかったという。

(Wikipedia「中院通村」から引用)

 

とにかく、こうして退位した後水尾天皇は上皇となりその後50年余りも院政をしきます。和歌や書などの学芸にもすぐれ、古今伝授の継承や、修学院離宮の造営など宮廷文化繁栄の中心的役割を果たし、寛永文化に大きな影響を及ぼしました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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