11月9日 <寺社奉行が創設されました(1635年=寛永12)>

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1635年(寛永12)のこの日、奏者番(そうじゃばん:将軍と大名との取次役)のうち安藤重長(あんどうしげなが)・松平勝隆(まつだいらかつたか)・堀利重(ほりとししげ)が寺社方などの訴訟を扱うように命じられました。これが江戸幕府の寺社奉行の始まりです。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1635年(寛永12)のこの日、奏者番のうち安藤重長・松平勝隆・堀利重が寺社方などの訴訟を扱うように命じられました。

これが江戸幕府の三奉行の一つ、寺社奉行の始まりです。それまでは、どうしていたのかと申しますと、1612年(慶長17)に以心崇伝(いしんすうでん)・板倉勝重(いたくらかつしげ)に寺社に関する職務を割り振りましたが、特に職制として確立されることはありませんでした。板倉勝重が1624年(寛永元)に亡くなり、また以心崇伝も1633年(寛永10)に没したため、寺社に関する担当者が不在となっていました。

そうそう、以心崇伝は金地院崇伝(こんちいんすうでん)とも呼ばれています。

 

幕府の職制について簡単にご説明しておいた方が良いですね。

 

江戸幕府の職制は、3代将軍徳川家光のころまでに整備されました。それ以前の家康・秀忠の時代は、三河以来の譜代門閥であった大久保忠隣(おおくぼただちか)・酒井忠世(さかいただよ)・土井勝利(どいかつとし)らが、年寄という立場にあって将軍や大御所の側近を固めていました。このほか、僧の天海(てんかい)・以心崇伝、儒者の林羅山(はやしらざん)、商人の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)・後藤庄三郎(ごとうしょうざぶろう)らが家康の側近として諮問にこたえていました。

 

その後、3代将軍家光時代の1635年(寛永12)前後に、老中若年寄大目付目付三奉行といった職制が決まっていきました。

幕府の中枢にあったのは老中です。定員は4人で幕政を統轄しました。井伊家など特定の譜代大名がなった最高職の大老は常置ではなく、重要事項のみその政策決定の合議に加わりました。その老中を補佐し旗本を監督するのが若年寄(4名)、大名を監察する大目付(4名)、旗本を監察する目付が置かれました。さらに、寺社の統制などに携わる寺社奉行(4名)、幕領の財政と行政にあたる勘定奉行(4名)、江戸の市政を担当する町奉行(南北2名)の三奉行が実務の処理に当たりました。こういった幕府の要職は月番制(1ヶ月交代で勤務)をとり、重要な判断は都度合議制をとりました。また、老中・三奉行・大目付らは評定所(ひょうじょうしょ)を構成して重要な裁判を担当しました。

三奉行といましても、その職制の図を見ると、町奉行・勘定奉行は老中の下に置かれ、寺社奉行は老中と同列に書かれているのが興味深いですねぇ。この他にも地方組織などもあるのですが、それはまたの機会と致します。

 

さて、話を寺社奉行に戻しましょう。

1635年(寛永12)に創設された際に、奏者番が兼職し、大名が就く役職で、寺社・町・勘定の三奉行のうち最上位といった形になっていきました。最初は老中の下に置かれる、いわゆる老中所管の扱いでしたが、1662年(寛文2)に将軍直属となったのです。

 

寺社奉行の職掌は、以下のもので、非常に多岐にわたりタフな役職であると想像されます。

  • 全国の寺社と寺社領の管理および宗教統制
  • 関八州以外の私領の訴訟
  • 寺社領の領民・神官・僧尼や楽人・検校(けんぎょう:寺社やその行事を総裁する名誉職的な僧職のこと)・連歌師・陰陽師・碁将棋所などの諸職の者を統轄

 

自邸を役宅とし、下僚には家臣(寺社役・平留役・取次、大・小検使など)を用いましたが、幕府からも吟味物調役が出向してきたようです。

 

寺社奉行になるというのは、実はエリートでして、その後大坂城代→京都所司代→老中という出世コースがありました。

 

奏者番が寺社奉行になる、というのはルールでしたが唯一の例外がありました。11月2日の記事に書きました大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が奏者番となる前に寺社奉行に任ぜられています。大岡忠相の話、こちらも併せてどうぞ。→ https://nihonshi.info/11月2日 <大岡忠相、病気により寺社奉行を辞任/

 

Wikipediaを見ていたら面白い記事がありましたので、以下にご紹介申し上げます。

時代劇で町奉行同心や与力が、犯罪者が寺社地に逃げ込むのをみて「寺社奉行が束ねているので手出しが出来ない」と地団駄を踏むシーンが登場するが、これは事実と異なる。

犯罪者が寺社地に逃げ込んだ際には、町奉行所側が寺社奉行に対し一定の手続きや捜査協力の申し出などにより『下手人の引き渡し』や『捕縛権の執行・代行』が行われていた。また火付盗賊改方は寺社奉行による事前了解が無くても、寺社地に立ち入っての犯罪者捜査や捕縛が認められていた。寺社側が犯罪者をかばうのが明白な場合、寺社奉行によって厳しく取り調べられ、僧侶・神官を捕縛したこともあり、寺社地が治外法権になるようなことはあり得なかった。

(Wikipedia「寺社奉行」より引用)

時代劇を見ていて、披露できる小ネタでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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