12月7日 <紫宸殿の庭に橘が植えられました(959年=天徳3)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

959年(天徳3)の今日、平安京の宮中の紫宸殿(ししんでん)、南階下の西側に橘(たちばな)が植えられました。平安時代には、右近衛府(うこのえふ)の官人がこの橘から南に陣列したので、一般に「右近橘(うこんのたちばな)」と呼ばれました。皇居は何度か火事に見舞われていますが、この橘はしばしば植え替えられたようです。

Wikipediaによると、この日の事は、次のように書かれています。

『日本紀略』によれば、天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本、高さ1丈2尺を植え替え、これは東三条殿の樹で、勅命によった。

(Wikipedia「右近橘」から引用)

東三条殿とは、摂関家当主の邸宅のことだそうで、この時期は藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が住んでおり、位は少納言であったと思われます。

 

この橘、という植物は「トキジクノカクノコノミ」と呼ばれており、漢字では「非時(ときじく)香(かく)木実(続けて:ときじくのかくのこのみ)」と書きますが、その葉が寒暖の別なく常に緑豊かに生い茂るので、長寿瑞祥の樹として珍重されたからでもあるそうです。

 

一方の南階下の東側には桜が植えられ、その南側に左近衛府(さこのえふ)の官人が陣列したので、こちらは「左近桜(さこんのさくら)」と呼ばれました。右左セットで「右近橘・左近桜」と覚えて下さい。こちらもやはり何度か植え替えられていますが、面白い事がわかっています。

 

「古事談」によれば、左は遷都の際、桓武天皇によって植えられたのは梅でしたが、承和年間(834〜847年)に枯れたため、あらためて仁明天皇(にんみょうてんのう)によって桜が植えられました。その後も倒れり…といった事があり、960年(天徳4)の内裏焼亡により、この左近桜も焼失してしまいました。その時は、重明親王の桜を移植したそうです。

 

内裏が使えずに里内裏となった場合でも、この橘と桜とが植えられる風習は続きました。

 

上記した960年(天徳4)の内裏焼亡の話は、9/23の当blogで記事にしていますので、併せてご一読頂けたら幸いです。→9月23日 <はじめて内裏が焼失する(960年=天徳4)>

 

現代の我々の生活の中でも、この「右近橘・左近桜」が目で見られる時があるのです。桃の節句、ひな祭りの際に飾られる雛飾りの飾り物の中にこの橘と桜とが入っている場合があります。ご家庭や百貨店などでご覧になられてみてはいかがでしょうか。

 

今日はここまでです。

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