12月1日 <丹那トンネル、使用開始(1934年=昭和9)>

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1934年(昭和9)のこの日、東海道本線の熱海〜函南間の丹那盆地の下を走る全長7,804mの丹那トンネルの使用が始まりました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1934年(昭和9)11月までは東海道本線は、箱根の辺りで現在とは異なるルートを走っていました。国府津駅(神奈川県小田原市)〜御殿場駅(静岡県御殿場市)〜沼津駅(静岡県沼津市)というルートで、この区間60.2kmにある山北〜沼津間は24-25/1,000の急勾配が連続していました。

輸送力増強のため、この区間を複々線化するか、国府津から熱海・三島を経て沼津に至る熱海新線を敷設するかは早くから検討されていました。

1909年(明治42)以降調査を行い、この熱海新線はトンネルと架橋工事が多く費用がかさみ、また熱海隧道(最初はこの様に呼ばれていたそうです)は、伊豆火山系が活動していた大昔の噴火口の下を通るため危険視する説もありましたが、1913年(大正2)にはこの新線敷設が決定しました。

 

新線工事は1916年(大正5)に始まり、丹那トンネルは1918年(大正7)4月に東西両口から掘削を始めました。予想通り、このトンネル工事は難工事で、当初7年間で完成の予定でしたが、工事開始後3年経った1921年(大正10)末にはトンネル工事中止の噂が立ったほどでした。同年12月14日付けの「時事新報」には

工事中止なら日本鉄道史上初の大失態

熱海新線全部の建設費2,400万円をトンネルだけに使っても開通は疑問

(1921年12月14日付「時事新報」)

といった風に書かれています。その理由として崩壊の危険性と大量の湧水とが挙げられており、同紙にはこの様にも書かれています。

掘るに従って滝のような水が噴出して、坑夫はまるで文覚(もんがく。平安時代の僧侶)の荒行(あらぎょう)のように滝を浴びてハンマーを振るっている。3時間交替だが一週間と続ける者はいない

(1921年12月14日付「時事新報」)

さらに温泉余土、断層の存在、1930年(昭和5)の北伊豆大地震に遭うなどの障害もありましたが、工事はシールド法や圧搾空気法など最新の技術を投入して続行され、当初の予定を大幅にオーバーして1934年(昭和9)に完成しました。開通当初は全長7,804mで、第二次世界大戦以前には清水トンネル(9,702m)に次ぐ長さでした。現在の丹那トンネルの長さは7,841mです。それは1969年(昭和44)に落石防止工事により37m延長したからです。

 

そして、前日の午後10時に東京駅を出発した神戸行き急行第19列車が、同年のこの日午前0時4分、約9分で通り抜けてその使用が始まったのでした。

 

丹那トンネルの工費は当初予算770万円が2,467万円、労働者は延べ250万人、殉職者は67人に達し、また、日本の鉄道トンネル掘削技術が世界のトンネル技術をリードする水準に達した大工事・難工事でした。トンネル内崩壊の生き埋めから奇跡の生還を果たした人も少なくなかったそうです。

 

この熱海新線のお陰で、国府津〜沼津間はそれまでの60.2kmから48.5kmに短縮され、しかも最急勾配も10/1,000に緩和され。所要時間はほぼ1/2に短縮され、牽引力も3倍に向上して念願の輸送力の増強が実現しました。東京〜沼津間は約25分短縮され、距離が短くなったので、料金も三等が14銭値下げされました。

 

この丹那トンネルが開通したことにより、それまでの東海道本線のルート国府津〜御殿場〜沼津間は御殿場線となり、現在も箱根の北側を走っています。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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