12月12日 <林羅山、徳川家綱にはじめて「大学」を進講(1656年=明暦2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1656年(明暦2)に今日、林羅山(はやしらざん)は4代将軍徳川家綱に四書のひとつの「大学」を進講しました。

 

四書とは、儒教の経典のなかでも特に重要とされる四種の書物で、「論語」「孟子」「大学」「中庸」をいいます。「論語」は20篇で通常10巻とされ、孔子や門人たちの言行を記録したもの。「孟子」は7篇で通常14巻、孟子と諸侯や門人などとの問答を記録したもの。「大学」は不分巻で儒教の政治思想の要点を述べたもの。「中庸」は不分巻で儒教の倫理思想の要点を述べたもの。このように君子が国家や政治に対する志を述べるものです。

 

「大学」と「中庸」とは、もとは五経のひとつ「礼記」の中の一篇でしたが、その内容に注目され独立して書物の様に扱われました。このふたつの書物は12世紀の宋の思想家朱熹(しゅき:朱子ともいいます)によって「論語」「孟子」と併せて儒教を学ぶ者の最初に読むべき書物として定められました。

 

朱子の意見によると。「大学」を読んで規模をさだめ、次に「論語」を読んで根本を確立し、次に「孟子」を読んでその展開を知り、最後に「中庸」を読んで学問の奥深いところを知るべきだ…といいます。

 

家綱が進講を受けたのは、この四書の取っ掛かりの「大学」でした。

 

林羅山は、京都の生まれで、13歳のとき建仁寺に入り禅学を学びましたが僧にはならず、15歳で寺をでて家に戻りました。その後22歳の時に藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事しました。入門の際に提出した既読書目には440点余の書名が列挙されるほどの勉強家だったそうです。1605年(慶長10)には藤原惺窩のすすめで徳川家康に会い、学識を認められ、そして1607年(慶長12)に江戸で徳川秀忠に会い、駿府で家康に仕える様になりました。

 

こののち、秀忠、家光、家綱までの4代の将軍に仕え、侍講を勤めるとともに自らの勉強のほか、出版、また幕府からの依頼で朝鮮通信使の応接や外交文書の起草、武家諸法度の作成、寺社関係の裁判事務などの学問・儀礼関係の公務に従事しました。1630年(寛永7)には徳川家光から江戸上野忍岡に屋敷を与えられ、学問両として200両を賜って、塾舎を建てて門人を教育しました。この私塾が、のちょの昌平坂学問所(昌平黌)へと発展んしていきます。こうして、その後も林家が代々儒者として幕府に仕える道を開いたのです。

 

この家綱への進講をしたのが、林羅山74歳の時で、実はその翌年1657(明暦3)1月23日に羅山は世を去っているので、文字通り最後のご奉公となったワケです。

 

ある時、羅山は史記(しき)の「樊噲伝(はんかいでん)」について徳川家康の前でよく講じていましたが、同席して聞いていた武将がいました。井伊直政(←2017年NHK大河ドラマの最重要登場人物の一人です)・榊原康政。本多忠勝らの歴戦の勇士です。その武将たちが

「時が経てば、われわれも樊噲のようにもてはやされるかもしれんな…」

とささやき合っていたのを耳にした羅山は次の様に諭したそうです。

「樊噲は漢の高祖を助けた功臣だが、高位高官についてからも帝に諫言(かんげん:いさめること)することを忘れなかった。あなたたち、主君の鼻息を窺って、ただ恐れ入っているだけの男とはちがいます。」

 

1655年(明暦元)、羅山は江戸市中にあった銅瓦の書庫を賜りました。中には当然蔵書がぎっしりです。ところが1657年(明暦3)1月にあった明暦の大火と呼ばれる火事で、蔵書もろとも書庫は消失してしまいました。その火事からの避難の際にも、駕籠ののなかで「梁書(りょうしょ)」を読んでいたほど学究に余念がなかった羅山は、書籍焼失に大層落胆し、火災から4日後の1月23日に亡くりました。

 

今日はここまでです。

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