12月13日 <両国橋が完成(1659年=万治2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1657年(明暦3)正月、江戸は大火に見舞われました、いわゆる明暦の大火(めいれきのたいか)です。江戸時代、江戸では多くの火事が相次いで起こり、そんな火事の際の火消しの華々しい働き振りと、気の早い江戸っ子の威勢が良くて派手な喧嘩とが「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉で顕される江戸らしさの一面でもありました。

 

 

その明暦の大火では、江戸市中の大部分は焼け、江戸城も天守閣が焼け落ち、本丸やその他の部分にも大きな被害がでた他、火事に因り亡くなった人も10万余りと言われるほど甚大な被害が発生しました。この火事が、年号を万治と改める原因となったそうです。

 

江戸は丘陵の多い土地でもあり、また城の近くまで海が迫っていたので、十分な都市計画を立てにくかったようでした。しかし、さきの明暦の大火後には、防災の観点からも思い切った区画整理を行いました。江戸城も本丸が焼けたので、周辺を空き地にする為に、それまで城内にあった御三家や将軍の弟たちの屋敷も城外に移され、城下町の大名屋敷の面子や配列などは大きく変わったそうです。また、もともとは城外周辺に置かれていた神社や寺院などは、江戸という町自体がどんどん大きく成っていたこともあり、いつの間にか町中になっていたので、これまた外縁地帯に引っ越しをさせられました。日枝神社(三宅坂上→溜池)、東本願寺(筋違橋→浅草)、西本願寺(浜町→築地)、霊巌寺(霊巌島→深川)、その他駿河台近辺の寺院は殆どが浅草、下谷、駒込方面に移動させられたのでした。

 

さらには、道路拡張や火除け地の設定も行われています。日本橋通りなどは18mくらいの道幅がありました。防火地帯としての火除け地は、現在でもその名称に名残を残していて、「広小路」「会所」というのがもとは火除けのために町屋を移して空閑地を広く取った場所でした。

 

火災のときに、橋が少ないために大きな惨事を生んだので、防災都市計画の一環で、橋も新しく架設されました。西の丸下の不明門(あかずのもん)へ八代洲(やよす)河岸から橋を架け、通行出来るようになりました。これは後の馬場先門です。

 

そして、江戸の発展に大きく寄与した立派な橋も作られました。1659年の今日、浅草川(現在の隅田川)に新しく掛けた橋は幅四間(7m強)、長さ九十四間(170mくらい)もある大きな橋が完成しました。武蔵と下総とをつなぐ橋、ということで両国橋と呼ばれました。この橋が出来たことで、浅草を越えて深川・本所方面といった江東地区への発展が促進されたのでした。この両国橋周辺は、その後の江戸文化の中心として発展し、花火・舟遊びをはじめ、浮世絵の題材や落語の舞台としても使われました。橋の両端は江戸最大の盛り場となっていったのです。こうした都市の発展・拡大をうけ、後年、徳川綱吉の時代に永代橋が出来たのです。

 

この時期からもう少しあとに、町火消しが整備されていきますが、それは過日記事にしていますので、その記事へのリンクを貼り付けておきますので、併せてご一読頂ければ幸いです。→ 10月18日 <江戸町火消が設置されました(1718年=享保3)>

 

今日はここまでです。

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