12月17日 <婦人参政権が認められる(1945年=昭和20)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

1945年(昭和20)の今日、衆議院議員選挙法が改正され、初めて婦人に参政権が認められました。

 

女性が、自らの権利を政治の面でも主張しようとしたのは、もう少し年代が遡ります。

 

明治時代も末期になりますと、女性の間に自分たちを従属的地位に縛り付ける社会的絆から解放し、地位の向上を図ろうとする思想・運動が生まれてきました。

 

1911年(明治 44) 年には。 平塚明(ひらつかはる:平塚雷鳥…ひらつからいてふのこと。)らを中心とする青鞜社(せいとうしゃ)が作られ、雑誌「青鞜」が発刊されて女性のを覚醒を促しました。その創刊号に掲載された平塚明の巻頭言はとても力に満ちたものでした。

 

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。… 私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取戻さねばならぬ」

(雑誌「青鞜」創刊号より引用)

 

この言葉は、自らの志を明確に、そしてまっすぐに示したものでした。そして、青轄社の女性たちは、「新しい女たち」と呼ばれて大きな反響をもって迎えられ、初めは1000部だった「青轄」の発行部数は3000部にまで増加したのでした。しかし、彼女たちが自由恋愛や自由結婚を論じたりすることに対し、世間からは日本の伝統的なモラルに反するという非難が浴びせかけられました。

 

青縮社のこうした運動は、文学的思想啓蒙運動を中心とものでしたが、1920年(大正9)には平塚や市川房枝(いちかわふさえ)らを中心に新婦人協会が結成され、婦人参政権運動も行わ れるようになりました。これが日本の婦人の参政権獲得運動のスタートでした。

 

この運動により、1922年(大正11)年には、女性の政治運動参加を禁止していた治安警察法第5条が改正され、女性の政治演説会への参加が認められました。新婦人協会は、1924年(大正13)には婦人参政権獲得期成同盟会に発展しました。そして1930年(昭和5)には婦人公民権法案が衆議院で可決されますが、翌1931年(昭和6)貴族院で否決され廃案に追い込まれました。

 

第2次世界大戦直後に市川房枝らが戦後対策婦人委員会を結成し婦人参政権運動を再開しました。この戦後対策婦人委員会は、同年の11月には新日本婦人同盟に発展しています。

 

また1945年(昭和20)10月の幣原首相に対して口頭で示唆された、マッカーサーによる五大改革の指令の第1項に、参政権賦与による日本婦人の解放が含まれていたこともあり、1945年(昭和20)11月には治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められ、そして、同年の今日、の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が遂に認められたのでした。

 

市川房枝らが新婦人協会を設立してから、実に四半世紀も掛かった念願の婦人参政権でした。

 

今日はここまでです。

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