12月23日 <吉野作造ら、「黎明会」を結成(1918年=大正7)>

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99年前のこの日、吉野作造・福田徳三らは、知識人の小集団として「黎明会」を結成しました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

第一次世界大戦を通じてもたらされた世界的な民主主義の風潮の高まりの影響を受け、我が国においても様々な社会運動が勃興しました。

1918年(大正7)には黎明会・東大新人会がつくられ社会の改革や国家の革新を唱えて、社会科学の研究や労働運動・農民運動と結びついた実践活動を進めました。

その年の米騒動後の国家主義思想の高まりに対抗するため、吉野作造と福田徳三が中心となり、知人の学者・言論人に会の結成を呼びかけることになりました。

 

そして同年のこの日、吉野・福田の勧誘状に応じた人々のほかにも総勢23名の入会希望者が集まり、1918年12月23日神田学士会館において「黎明会」が結成されました。結成に際して、大略以下の「大綱三則」が採択されました。

  1. 日本の国体の学理的解明と、世界人文の発達における日本の使命の発揮。
  2. 世界の大勢に逆行する危険な頑迷思想の撲滅
  3. 第一次世界大戦後の新情勢に応じた、国民生活の安定・充実の促進。

さらに、当日行われた第1回の例会で、当面の活動として月1回の時事問題を取り上げた講演会の開催とその内容を記録した講演集の出版が決定されました。

参加者は、吉野・福田のほかに今井嘉幸・新渡戸稲造・穂積重遠・大庭景秋・大山郁夫・渡辺銕蔵・森戸辰男らが居ました。途中から参加した人には与謝野晶子なども含まれていました。

挑戦や中国に対する武断的体外政策への批判、普通選挙制度の実施、治安警察法第17条撤廃といった主張を展開し注目を集める一方、当局からの会員への弾圧も行われました。

ILO労働代表選出問題で、会員の違憲が割れ1920(大正9)8月に、わずか2年足らずの活動で解散しました。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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