2月12日 <徳川慶喜が、江戸城を出て上野寛永寺に移りました(1868年=明治2)>

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1868年(明治2)のこの日、江戸幕府最後の将軍である第15代徳川慶喜は、朝廷軍の江戸進撃に対して恭順の意を示すため、江戸城を出て上野の寛永寺に入り謹慎しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは4分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1867年(慶応3)12月9日、薩長両藩は新たな政局の主導権を握り政変を決行しました。いわゆる王政復古の大号令を発し、徳川慶喜を除く新しい政府を作りました。ところが、新政府が徳川慶喜を政権に加えず、彼に対して、辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名両藩士たちを憤激させました、

慶喜は、翌1868年(明治元)1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京しようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍(官軍)との間に鳥羽・伏見の戦いが起こりました。旧幕府軍は15,000の兵力でわずかに5,000の兵力の新政府軍と相対しましたが、何と大敗を喫してしまったのです。

慶喜は、その報をうけて、更には淀藩・津藩が新政府側に寝返ったことをうけ幕府軍が総崩れになったことを知ると、もはや大阪では挽回の見込みが無いことを悟り、江戸に帰って再起を図る決意を固め、密かに老中板倉勝静(いたくらかつきよ)・若年寄永井尚志(ながいなおゆき)と協議し、大阪城脱出の準備を進めました。

 

そして、慶喜は、自分自身が陣頭指揮に立って反抗に移ると発表して部下を欺き、狂喜した将兵が各自の部署についている隙に、夜の10時頃、僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、および会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)、桑名藩主松平定敬(まつだいらさだあき)らを従えて城を抜け出し、小舟で川を下って天保山沖に出て、幕府軍艦開陽を探しましたが発見できず、その夜はアメリカ軍艦み収容してもらいました。

翌7日、慶喜ら一行はようやく開陽に移り、8日副館長の沢太郎左衛門(さわたろうざえもん)に江戸に向けて出航を命じ、諸般の理由で出航延期を懇願した沢の言うことを認めず、慶喜は江戸に向かわせたのです。そうして11日夜半に品川沖に付き、12日朝、慶喜は江戸城に入りました。

 

慶喜は、その時点ではまだまだ新政府と対決するつもりでいました。

というのは、江戸に戻る途中、10日に随伴していた外国奉行山口駿河守を浦賀で降ろし、横浜のフランス公使館に行かせているのです。当時のフランスは徳川政権を経済的にも軍事的にも援助していた国だったのです。

また、慶喜は、江戸城に入って、当月3日の鳥羽・伏見の戦いのことを、薩摩藩士が天皇の真意をゆがめて自分に朝敵の名を負わせたために、戦には敗れたが

「ついては深き見込みもこれあり、ひとまず東帰いたし候。追々申し聞け候儀これあるべく候間、めいめい同心協力、国家(幕府)のため忠節をぬきんずべきこと」

(稲葉正邦閣老在職中秘書類写)

と言っているそうです。この「深き見込み」が軍事的反撃なのか? 政治的和解なのか? は不明ですが、この時点でも慶喜はまだまだやる気十分だったのです。そしてまた、諸藩への布告には

「この後の動静によりすみやかに御上阪遊ばされ候と思し召し候」

とあるので、反撃する意思を示していました。

 

ところが、陸軍総裁勝海舟や会計総裁大久保一翁らは、徳川家を存続させる唯一の道は、慶喜がひたすら謝罪恭順するほかないことを熱心に慶喜に説きました。

勝海舟は抗戦してもその先が無いことが分かっていたのです。それは薩長の軍勢が脅威であったわけではありません。軍事的なことに限定して見れば、勝には成算がありましたが、政治的には民心の離反が著しく、幕府が政権を維持していくことは絶望的だったのです。

 

その忠告で、慶喜も次第に謝罪恭順の気になり、そうして、1868年(明治元)のこの日、慶喜は上野東叡山寛永寺に蟄居し、謝罪恭順書を提出したのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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