2月10日 <北九州市爆誕!(1963年=昭和38)>

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1963年(昭和38)のこの日、門司・小倉・若松・八幡・戸畑の5市が対等合併により北九州市としてスタートすることになりました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

本州側から九州に向かって高速道路(中国自動車道)をひた走り、本州側の最後の辺りは源平最後の合戦である壇ノ浦の戦いが行われた関門海峡に至ります。そして、30秒ほどの時間で渡れる関門橋を過ぎると、そこは九州の玄関口北九州市です。そしてそこからは九州自動車道。

実は、この本州側の下関IC〜九州側の門司ICまでの間は、高速道路としては独立した名称を持っているのですよ。その名は関門自動車道なんですねぇ。

 

上記した北九州市は、それほど古い市ではなく、1963年(昭和38)のこの日、門司・小倉・若松・八幡・戸畑の5市が対等合併して誕生した市なのです。

しかしながら、その歴史は古く、関門海峡を挟んで本州に接していたこともあり、古代から交通の要地でした。古くは西海道の駅馬が置かれ、中世には東国御家人が配置され、戦国時代には大内・大友・毛利三氏が激しい抗争を繰り広げた場所でした。

近世には若松・戸畑・八幡が福岡藩領、門司・小倉が小倉藩領に属していました。

明治時代中期になると、筑豊炭田を背後に抱えた好立地であったこともあり、八幡製鉄所を中核とする北九州工業地帯を形成し、門司は九州の玄関口としての港湾都市、小倉は旧城下町を中心に政治経済の中核を成し、また若松は筑豊炭田の搬出港として繁栄しました。

それらの各地域は

  • 1899年(明治32):門司
  • 1900年(明治33):小倉
  • 1914年(大正3):若松
  • 1917年(大正6):八幡
  • 1924年(大正13):戸畑

という具合に明治〜大正期に市制に移行しましたが、1963年(昭和38)に人口増加と経済的地盤沈下への危機意識からこの5市が合併することになったのです。こうして、面積465平方km、人口約105万人の大都市が誕生し、同年4月には全国で6番目の政令指定都市となりました。 1979年に108万人となった人口は、その後減少が続いており、2005年1月に100万人を割り込み、現在は95万人ほどです。

 

新しい市が誕生するにあたり、新市名を公募したところ

  1. 西京市
  2. 北九州

でありましたが、すでに、馴染みのあった北九州市が採用されました。

 

 

経済的地盤沈下への危機感、と書きましたが、この地域の産業が素材産業中心で加工産業が育たず、また産業基盤の老朽化などもあり、1960年代以降は九州の中心地が福岡に移っていったこともあり以前ほどの活況感は見られなくなっている様です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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