2月13日 <千利休が京都から堺へ追放されました(1591年=天正19)>

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1591年(天正19)のこの日、聚楽屋敷に謹慎する千利休のもとに、堺に罷り下る(まかりくだる)様に…、との秀吉の命令が届きました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1591年の春、豊臣秀吉の逆鱗にふれて、千利休は聚楽屋敷に謹慎していました。その春の2月13日、利休のもとに秀吉の使いとして富田知信(とみたとものぶ)・柘植左京亮(つげさきょうのすけ)の両人がやってきて、堺に罷り下る様に…との秀吉の命令を伝えました。

 

かねてから覚悟を定めていた利休は、その晩、緊楽屋敷をでて堺に向かいました。茶湯門下の諸大名は秀吉に気兼ねして誰も見舞うものは居ませんでしたが、のちに「利休七哲」に数えられる弟子の古田織部(ふるたおりべ)細川忠興(ほそかわただおき)の二人だけが、淀の舟着き場まで見送りにきていた。利体はそこで二人を見つけて、おりがおりだけに驚喜した、ということです。

 

利休は、それから十余日間を堺で過ごしました。その間、前田利家かららも大政所や北政所を通じて命乞いをするから謝罪をするようにという助言があり、秀吉も暗にそれを待っていたふしがあるのですが、利休は命惜しさに女たちに頼みこんだと思われるのは無念として、「たとえ御誅伐(ごちゅうばつ)に逢い候とも是非(ぜひ)なく候」と、意地を貫いたのでした。

 

2月25日、京の一条戻橋(もどりばし)のたもとで利休の木像が磔(はりつけ)にされ、その木像のかたわらには利休の罪状を記した高札が立てられました。罪状の一は大徳寺山門の楼上にみずからの等身大の木像を安置した僭越行為であり、その二は茶器のめききや売買に不正行為があったというものでした。当時、木像の磔は前代未聞だと京中で噂になり、見物客で大変な賑わいをみせたそうです。

 

その後、京都に呼び戻された利休は2月28日聚楽屋敷内で切腹したのです。

 

千利休を死に至らしめた要因ついては

  • 茶器の鑑定に不正があった
  • 大徳寺山門木像事件
  • 秀吉が利休の娘を所望して、これを拒否されたのを怒った
  • 秀吉政権の派閥抗争に巻き込まれ、一方の派閥のリーダーの石田三成に憎まれた

といった諸説がありますが、真相は闇の中です

 

その内容の真偽はさておいて、野上弥生子女史の「秀吉と利休」はこの二人の軸に丁寧に書かれている、実に読み応えがある小説です。まだお読みになられていないのであれば、是非!

 

 

2.他の年、この日の記事

 

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。
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